ヘンドリック・ファン・オラニエ=ナッサウ
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ヘンドリック Hendrik | |
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オラニエ=ナッサウ家 | |
1870年 | |
全名 |
一覧参照
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出生 |
1820年6月13日 ネーデルラント連合王国、ユトレヒト州バールン、スーストダイク宮殿 |
死去 |
1879年1月14日(58歳没) ルクセンブルク、ヴァルフェルダンジュ、ヴァルフェルダンジュ城 |
埋葬 |
1879年1月25日 オランダ、デルフト、新教会 |
配偶者 | アマーリア・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ |
マリー・フォン・プロイセン | |
父親 | ウィレム2世 |
母親 | アンナ・パヴロヴナ |
役職 | ルクセンブルク総督(1850年2月5日 - 1879年1月14日) |
宗教 | キリスト教オランダ改革派 |
ヘンドリック・ファン・オラニエ=ナッサウ︵Hendrik van Oranje-Nassau、1820年6月13日 - 1879年1月14日︶は、オランダの王族・軍人。海軍に長く勤務していたことからエンリケ航海王子にちなんで﹁ヘンドリック航海王子︵Hendrik de Zeevaarder︶﹂とも呼ばれた。
子ども時代のヘンドリックと妹ソフィー︵ファン・デル・ハルスト 画、1830年︶
ヘンドリックは1820年6月13日、オラニエ公ウィレム︵後のオランダ王ウィレム2世︶とその妃であったロシア皇帝パーヴェル1世の皇女アンナの間に第三子︵三男︶としてスーストダイク宮殿︵ユトレヒト州バールン︶で生まれた。全名はウィレム・フレデリック・ヘンドリック︵Willem Frederik Hendrik︶。
ヘンドリックは海軍士官として軍歴を積み、最終的には海軍大将︵Luitenant-admiraal︶に任じられた。1837年にはオランダ領東インドを訪れ、この地に7ヶ月滞在している。
また1849年に父ウィレム2世が歿すると、兄の新王ウィレム3世によって1850年2月5日にルクセンブルクの総督に任命され、以後1879年に亡くなるまでその地位にあった。在任中、政府と協力して1856年のルクセンブルク・クーデターを起こし、君主と行政の権力強化に寄与した[1]。しかし、1867年のルクセンブルク危機の後、1868年に新たに発布された憲法によってほとんどの変更点がもとに戻された[1]。
1853年5月9日、ヘンドリックはザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公子カール・ベルンハルトの娘アマーリア︵1830年 - 1872年︶[注釈 1]とヴァイマルで結婚した。彼女とは子供がないまま死別したが、オランダ王家が断絶しかかっていた︵ウィレム3世には当時存命の息子が二人いたが、長男のオラニエ公ウィレムは30歳になろうというのに未婚で、三男のアレクサンダーも未婚で病弱だった︶ので、ヘンドリックは再婚相手を探した。そして彼はプロイセン王子フリードリヒ・カールの娘であるマリーと1878年8月24日にポツダムの新宮殿にて結婚した。
しかしヘンドリックはそれからわずか5ヵ月後の1879年1月14日にヴァルフェルダンジュ︵Walferdange、現ルクセンブルクのルクセンブルク広域行政区ルクセンブルク郡︶にてはしかに罹って死去した。後妻のマリーとの間にも子供はいなかった。
遺体は1879年1月25日にデルフトの新教会にあるオラニエ=ナッサウ家の墓所に埋葬された。
アムステルダムの主要な大通りであるプリンス・ヘンドリッカデ︵Prins Hendrikkade︶は1879年にヘンドリックが亡くなった後、彼にちなんで名付けられた。通りにはヘンドリックの胸像が建てられている。
生涯[編集]
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アムステルダムのプリンス・ヘンドリッカデにあるヘンドリックの像
1871年にヘンドリックが設立して彼にちなんで名付けられた慈善団体「ヘンドリック王子財団」は、船員とその未亡人の支援に取り組んでいる[2]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b Christiane Huberty (2006年11月). “Le Conseil d'État – un produit du conflit constitutionnel du milieu du XIXe siècle” (フランス語). forum.lu. 2009年12月2日閲覧。
- ^ "Historie", Prins Hendrik Stichting (Dutch)
外部リンク[編集]
- ウィキメディア・コモンズには、ヘンドリック・ファン・オラニエ=ナッサウに関するカテゴリがあります。