ミハイル・キルポノス
ミハイル・ペトロヴィッチ・キルポノス︵ロシア語: Михаи́л Петро́вич Кирпоно́с、1892年1月9日 - 1941年9月20日︶は、ソ連の軍人。大将。ソ連邦英雄。第二次世界大戦時、南西戦線司令官を務め、キエフでドイツ軍に包囲され大敗を喫し自らも落命した。
1919年撮影
1918年から赤軍に入隊し、ロシア共産党︵ボリシェヴィキ︶に入党した。ロシア内戦時、大隊、連隊を指揮し、戦後、1922年からチェルヴォナ︵赤色︶曹長学校長補佐兼政治委員を務めた。1927年、フルンゼ名称軍事アカデミーを卒業し、狙撃師団参謀長となった。1934年~1939年、カザン軍事学校長兼政治委員。
ソ・フィン戦争時、第70狙撃師団を指揮し、ソ連邦英雄の称号を授与された。1940年4月、狙撃軍団長、同年6月、レニングラード軍管区司令官、1941年2月、キエフ特別軍管区司令官となる。1941年から党中央委員会委員候補。
独ソ戦勃発と共に、南西戦線司令官に任命される。軍事的才能のなかったキルポノスは、スターリンの命令に従い、その結果、約45万3千人の将兵と共にキエフで包囲されることとなった。9月17日、キルポノスは、包囲からの脱出をスターリンに要請したが、これは拒否された。同日夕方、戦線の撤退が決定されたが、既に遅く、戦線本部との連絡は失われていた。キルポノスは、包囲からの脱出の際に迫撃砲弾により致死傷を負ったとされる。別説によれば、自殺したともいう。