ルドルフ・シンドラー
ルドルフ・シンドラー | |
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生誕 |
1887年9月10日 ウィーン |
死没 |
1953年8月22日 (65歳没) カリフォルニア州ロサンゼルス |
国籍 |
オーストリア アメリカ合衆国 |
職業 | 建築家 |
建築物 | シンドラー自邸、ローヴェル・ビーチ・ハウス |
ルドルフ・ミヒャエル・シンドラー︵Rudolf Michael Schindler、1887年9月10日ウィーン - 1953年8月22日ロサンゼルス︶は、オーストリア出身のアメリカの建築家である。
フランク・ロイド・ライトの設計事務所を経て、1920年代から40年代のロサンゼルスで100件以上の住宅の設計を手がけ、1950年代に起こったモダンデザインブームに先駆けて当地に近代建築を根付かせた。
シンドラー自邸 1922
帝国ホテルの仕事を終えて帰国したライトは、1920年、ライトの作品として有名なホリーホック・ハウスの施主である、アリーヌ・バーンズドールからの依頼を受け、シンドラーをロサンゼルスに送る。ロサンゼルスに移ったシンドラーは、この頃既に半分独立したような形で彼自身への依頼を受け始め、1922年には代表作とされるシンドラー自邸︵Kings Road House︶を手掛ける。ロサンゼルスに移る前の年である1919年には、妻ポーリーヌ・ギブリン(1893年-1977年)と出会い、結婚もしていた。
この頃には、シンドラーとライトの関係にひびが入り始める。ライトは日本に行っている間から、建築設計はもちろん、事務所の運営、オークパークの住宅賃貸事業、ホリーホック・ハウスをはじめとする住宅の製図および現場監理と、多忙を極めた業務に対して、あまりに薄給で報いたことへの不満が原因だといわれている。アリーヌ・バーンズドールは、その後、シンドラーに設計を依頼するようになり、オリーブ・ヒルに数多くの小品を残すこととなった。中でも、1927年の﹁半透明の家︵translucent house︶﹂は未建築に終わったものの高い評価を得ている。
ライトから施主を奪ったという一事をみても、関係の悪さが見て取れるが、1929年の出来事は、よりはっきりと2人の仲を分かつことになる。ロサンゼルスで建築士資格取得の申し込みをしたときのこと、シンドラーは業務実績として、帝国ホテルにおける意匠から構造にわたる広い範囲の業務に携わったことを挙げた。しかし、雇い主であるライトは、この事実を完全に否定。言い争いはもつれにもつれ、シンドラーはノイトラとの対談を小冊子にして発行して、﹁ライト不在の2年間、フランク・ロイド・ライト事務所を切り盛りした人物﹂であることをアピールするといったことまで行った。1931年、とうとう喧嘩別れになった2人は、1953年、シンドラーが死去する数か月前まで和解することはなかったのである。
ローヴェル・ビーチ・ハウス 1926
シンドラーの初期の作品は、構造体をコンクリートとしている。しかし、通常の鉄筋コンクリート造とは異なり、tilt up panel、日本でいうところのプレキャストコンクリートパネルを壁・床に採用していることが特徴と言える。ただし、工場で製作されることが多い現在のPCパネルとは異なり、現場で打設されたものである。シンドラーはOCR事務所時代に、アービング・ギルの作品に触れることでこの手法に触れることになったらしい。シンドラー自邸、ピューブロ・リベラ・コート、ローヴェル・ビーチ・ハウス (Lovell Beach House)、ウォルフェ邸、そしてハウ邸などがその代表作である。最も有名なシンドラー自邸 (Kings Road House)は、自分とその妻、そして友人のチェイス夫妻の二組の夫婦のための自宅兼スタジオである。L型の平面構成で、前述のPCパネルの壁・床と、開放的な木製の建具の対照が見事である。
その後、シンドラーはより安価な建築を求め、コンクリートから木造プラスター塗り構造を採用するようになる。この仕様は、彼の1930~40年代の作品に多く見られるが、形態と空間を追い求め続けた。シンドラーは独自の工法の研究にも熱心で、1945年、シンドラー・フレームと呼ばれる工法を開発し、以後の作品に実験的に用いている。