三浦修吾
三浦 修吾︵みうら しゅうご、1875年︿明治8年﹀ - 1920年︿大正9年﹀︶は、日本の教育者である。
福岡県浮羽郡吉井町若宮出身。
福岡師範を卒業後、東京高等師範に進学し、その英語科を卒業。鹿児島師範を経て、姫路師範に転出。鹿児島師範当時の教え子に、玉川学園を創立した小原国芳がいる。同付属小学校主事となる。姫路師範在職2年で結核に罹り、1915年︵大正4年︶退職。療養生活の中でも執筆などの活動は継続、上京して成蹊学園の機関誌﹃新時代﹄の編集主任を務める。45歳で死去。クリスチャンであった。
﹃学校教師論﹄が名著の誉れが高い。戦前の東京府青山師範学校では、教育学の教科書に使われていたという。﹃修身教授録﹄の森信三が推奨している。エドモンド・デ・アミーチスの﹃クオレ﹄︵﹃母をたずねて三千里﹄の原作︶を邦訳し、﹃愛の学校﹄として出したことでも知られている。