上田碩三
上田 碩三︵うえだ せきぞう、1886年2月27日 - 1949年1月30日︶は日本のジャーナリスト、実業家。元電通社長。
人物[編集]
熊本県八代郡宮原町︵現・氷川町︶出身[1]。1909年に東京高等商業学校︵のちの一橋大学︶を卒業し、日本電報通信社︵のちの電通︶入社。語学力を活かしパリ講和会議、ワシントン会議、ロンドン海軍軍縮会議で特派員を務め[2]、﹁カミソリ上田﹂と呼ばれた。 電通で常務取締役通信部長等を務めたのち、同盟通信社編集局長、常務理事。日映専務理事[3][4][5]。 1945年電通社長に就任。同年、大学の後輩で、結核の療養中だった田中寛治郎を再入社させた。田中は結核の療養を続けながら、電通の監査役兼渉外部長や秘書役等を歴任し、パブリック・リレーションズ︵PR︶研究・導入の日本における草分けとなった。1946年には電通の経営基本方針に﹁PRの導入と普及﹂を掲げ、PRの普及に努めたが、1947年GHQにより公職追放され、社長を退任。 1949年、親友のUPI通信社極東担当副社長マイルス・ボーンらとともに和船で浦安沖で鴨猟に出たところ、乗っていた船が転覆し、ボーンらとともに水死体で発見された。享年64[6]。1951年、妻のミエも、品川区の自宅で絞殺体で発見された。享年55[7]。 死の翌年である1950年に、上田とボーンを記念しボーン・上田記念国際記者賞が創設された[8]。また上野恩賜公園に、上田とボーンをたたえた﹁真友の碑﹂が建てられている。著作[編集]
●上田碩三﹁のんびりした當時の中學生活﹂﹃白鷺 : 熊本県立八代中学創立三十周年記念﹄124-125頁、学友会、1925年。doi:10.11501/918550。 ●上田碩三﹁倫敦と紐育の新聞﹂﹃英語研究﹄第319巻(11) 1169-1177頁、研究社出版、1927年02月。doi:10.11501/2331341。 ●上田碩三﹁日本通信網の組織﹂﹃総合ジャーナリズム講座﹄第3巻、内外社、1930年-1931年。︵東京 : 日本図書センター、2004年。全国書誌番号:20623005、ISBN 4-8205-8945-8。︶ ●上田碩三﹁英國新聞の支配系統﹂﹃新聞総覧﹄第566巻、67-76頁、1927年。日本電報通信社。脚注[編集]
(一)^ ﹃九州人国記﹄熊本日日新聞社、1966年、501頁。 NCID BA58569461。
(二)^ 山崎扇城﹁上田碩三氏﹂﹃新聞人史. 第1編 (東京)﹄新聞事報社、1929年、136-138頁。doi:10.11501/1056166。
(三)^ 井上雅雄﹁大映研究序説 : 映画臨戦体制と大映の創設﹂﹃立教經濟學研究﹄第64巻第3号、立教大学、2011年1月20日、51–85頁、doi:10.14992/00003135。
(四)^ 小林真二﹁日映時代の坂口安吾をめぐるノート(1)徴用逃れ・日本映画社・上田碩三﹂﹃語学文学﹄第38号、2000年、17–28頁、NAID 110000968816。
(五)^ 小林真二﹁日映時代の坂口安吾をめぐるノート(2)日映の文化映画﹂﹃語学文学﹄第44号、2006年、11–20頁、NAID 110004830236。
(六)^ 1949年2月1日, 朝日新聞
(七)^ 1951年4月7日, 朝日新聞
(八)^ 1986年1月25日, 朝日新聞