伊藤篤太郎
伊藤 篤太郎︵いとう とくたろう、1866年1月15日︵慶応元年11月29日︶ - 1941年︵昭和16年︶3月21日︶は、日本の植物学者。
略歴[編集]
尾張国に生まれた。父親は本草学者 伊藤圭介の弟子で、圭介の女婿となった伊藤︵中野︶延吉である。1872年に東京に出て、祖父圭介のもとで植物学を学び、1884年からイギリスのケンブリッジ大学などに私費留学をした。1887年に帰国後、東京府尋常中学校や愛知県尋常中学校、1894年からは鹿児島高等中学造士館で教職についた[1][2]。 鹿児島時代は、沖縄諸島の植物の収集を行い、後に、松村任三と﹃琉球植物説﹄︵1899︶を発表した[3]。1888年にトガクシソウの学名に関わる﹁破門草事件﹂が起きている。1896年に造士館が閉鎖になると、愛知県立第一中学校で教職についた。1897年から1898年には祖父圭介を顕彰する﹁錦窠翁九十賀寿博物会誌﹂や﹁理学博士伊藤圭介翁小伝﹂の編集、執筆を行った[4]。1921年に東北帝国大学に生物学科が新設されるとその講師となった。著書に﹁大日本植物図彙﹂などがある。脚注[編集]
- ^ 岩津都希雄『伊藤篤太郎 初めて植物に学名を与えた日本人』改訂増補版、八坂書房、2016年。ISBN 978-4-89694-198-2
- ^ 『東京府立第一中学校創立五十年史』(東京府立第一中学校編、1929年)
- ^ 大場秀章編『植物文化人物事典』日外アソシエーツ、2007年。ISBN 4816920269
- ^ 錦窠図譜の世界:名古屋大学附属図書館