保科正景
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保科正景 | |
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時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 元和2年9月5日(1616年10月15日) |
死没 | 元禄13年5月16日(1700年7月2日) |
改名 | 甚四郎(幼名)、正景 |
別名 | 帰元(号) |
戒名 | 真誉帰元泰嶽院 |
墓所 | 千葉県富津市の浄信寺 |
官位 | 従五位下、越前守、弾正忠 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 上総飯野藩主 |
氏族 | 保科氏 |
父母 | 父:保科正貞、母:上原氏(方安院) |
妻 | 正室:松平忠国の娘・翠松院 |
子 | 長男、次男、三男、正賢、娘(九鬼隆常継室)、娘(戸田氏胤正室) |
保科 正景︵ほしな まさかげ︶は、上総飯野藩の第2代藩主。
元和2年︵1616年︶9月5日、初代藩主・保科正貞の長男として生まれる。正貞は廃嫡されて流浪した経緯があったため、はじめは小出吉英の三男・保科正英が養子として迎えられ、正景には家督相続権が無かった。しかし正貞が藩主として復帰すると世子となり、寛文元年︵1661年︶に父の死去で跡を継ぐこととなった。このとき、正英に2000石を分知している。
寛文5年︵1665年︶に大坂加番に任じられ、寛文10年︵1670年︶に日光祭礼奉行となる。延宝5年︵1677年︶に大坂定番になり、丹波国内で5000石を加増されて2万石となった。貞享3年︵1686年︶10月、四男の正賢に家督を譲って隠居し、元禄13年︵1700年︶5月16日に藩邸にて死去した。享年85。