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傅 式説︵ふ しきえつ[2]︶は、中華民国の政治家・化学者・教育者。南京国民政府︵汪兆銘政権︶の要人。字は筑隠。傅式悦と表記されることもある。字は築隠。号は耐盦。
1903年︵光緒29年︶、中山学堂に入学する。1905年︵光緒31年︶、日本に留学して、東京帝国大学で工学士の称号を取得した。1911年︵宣統3年︶、帰国し、辛亥革命で革命派の義勇軍に参加した。その後、再び日本へ留学し、東京帝国大学工学部で研究生となった。このとき、同級生たちと﹃丙辰学社﹄、﹃中華学芸社﹄を創立している。
1918年︵民国7年︶に帰国し、通易鉱務公司、漢冶萍煤鉱公司などに所属した。1922年︵民国11年︶、私立廈門大学教授をつとめる。1924年︵民国13年︶には、大夏大学の創設に従事し、その首脳となる。1927年︵民国16年︶以降、国民政府の交通部や財政部で任用された。一方で、中華学芸社社長、大夏大学臨時校長なども、つとめている。
1940年︵民国29年︶3月、汪兆銘︵汪精衛︶の南京国民政府に参加し、鉄道部部長兼中央政治委員会指定委員︵以後、4期務める︶となった。8月、中日文化協会常務理事兼総幹事となる。12月、全国経済委員会委員をつとめた。8月、行政院政務委員となり、さらに浙江省政府主席兼民政庁庁長となった。その後、清郷委員会委員や新国民運動促進委員会委員なども歴任している。
1943年︵民国32年︶3月、杭州日本専管租界接収委員に任じられた。1944年︵民国33年︶9月、建設部部長に任命される。11月、全国経済委員会常務委員となった。翌年2月、敵産管理委員会委員にもなっている。
日本敗北後の1945年︵民国34年︶9月27日、傅式説は蔣介石の国民政府に上海で逮捕された。翌1946年︵民国35年︶9月28日、漢奸の罪で死刑判決を受け、1947年︵民国36年︶6月19日、上海市で執行された[3]。享年57。
著書に﹃化学概論﹄がある。
- ^ 『最新支那要人伝』186頁は1892年とするが、本記事は徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』に従う。
- ^ 傅式悦と表記されることもあるため、「説」は「喜ぶ」を意味する「えつ」の音を採用する
- ^ 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』1463頁、1615頁。