劉輔
劉 輔︵りゅう ほ、? - 84年︶は、後漢の皇族。沛献王。
経歴[編集]
光武帝と郭聖通のあいだの次男として生まれた。39年︵建武15年︶、右翊公に封じられた。41年︵建武17年︶、母の郭皇后が廃位されて中山太后となると、劉輔は徙封されて中山王となり、合わせて常山郡を食邑とした。44年︵建武20年︶、沛王に徙封された。 ときに劉輔は更始帝の子である寿光侯劉鯉を賓客としていた。劉鯉は劉盆子が更始帝を殺害したとして恨んでおり、報復のために劉盆子の兄であるもと式侯劉恭を殺害した。劉輔はこの事件に連座して獄に下されたが、3日後に釈放された。この事件の後、諸王の賓客の多くが処罰された。52年︵建武28年︶、劉輔は沛国に下向した。 57年︵建武中元2年︶、劉輔の子の劉宝が沛侯に封じられた。58年︵永平元年︶、劉宝の弟の劉嘉が僮侯となった。 84年︵元和元年︶6月辛酉[1]、劉輔は死去した。子の劉定が後を嗣いだ。人物[編集]
劉輔は誇り高く、決まりごとに厳しい性格であった。読書を好み、﹃京氏易﹄・﹃孝経﹄・﹃論語﹄や図讖を解説するのを得意とした。﹃五経論﹄を作り、当時に﹃沛王通論﹄と呼ばれた。沛国では態度を慎んで節度を守り、終始一貫していたため、賢王と称された。明帝に敬い重んじられて、たびたび賞賜を加えられた。子女[編集]
●沛侯劉宝 ●僮侯劉嘉 ●沛釐王劉定︵後嗣︶ 85年︵元和2年︶、劉定の弟12人が郷侯となった。脚注[編集]
伝記資料[編集]
- 『後漢書』巻42 列伝第32