勝俣孝雄
表示
勝俣 孝雄︵かつまた たかお、1930年2月10日[1] - 2019年3月11日︶は日本の経営者。新日本製鐵︵現‥新日鐵住金︶副社長、九州石油︵現‥ENEOS︶社長・会長を務めた。
来歴[編集]
東京府東京市出身。1953年に東京大学法学部卒業、八幡製鐵︵後の新日本製鐵︶入社。秘書生活を21年勤め社内では名物秘書長として知られた[2]。新日鉄社長ポスト争いでの不運[編集]
﹁ゴードファーザー﹂こと永野重雄、稲山嘉寛の二人が1983年に引退宣言。これにより1952年 - 1954年入社組の今井敬︵旧富士出身︶、佐々木喜朗︵旧富士。大学の同期︶、永野辰雄︵永野重雄の長男︶、勝俣の四人がほぼ同時期に取締役に昇進、激しい出世争いとなった[3]。財界人脈が豊富な勝俣が次期社長候補No.1と期待されていた。 新日本製鐵は旧富士出身社長→旧八幡出身社長→旧富士出身社長という風に伝統的な﹁たすきがけ人事﹂が行われている。1993年、旧八幡出身の斎藤裕社長の後任として伝統破り︵勝俣も旧八幡出身︶が期待されたが、旧富士出身の今井敬が社長に昇格。伝統は固く、勝俣は2年後に関連企業である九州石油の社長に就任した[4]。九州石油社長ポストは新日鉄社長に就任する実力がありながら﹁たすき掛け﹂のルール上就任できなかった旧八幡出身副社長のいわゆる﹁天下り﹂ポストである︵たすきがけ人事及び天下りポストの伝統は2008年に崩壊︶[5]。 その後1998年、自身の部下だった千速晃が新日鉄社長に昇格した。死去[編集]
2019年3月11日、急性腎不全のため、よみうりランド慶友病院にて、死去。89歳没[6][7]。人物[編集]
●代ゼミの共同創設者である勝俣久作の長男。東京電力会長の勝俣恒久、丸紅会長の勝俣宣夫の二人は実弟で孝雄・恒久・宣夫の三人は﹁産業界の勝俣三兄弟﹂と呼ばれた。 ●しかし実力がありながらも伝統という壁に阻まれ、三兄弟の中で唯一本社社長に昇格できなかった。就任していれば史上初の三兄弟上場企業社長が誕生していた︵樫尾四兄弟は例外︶。 ●似たような例として月島機械元社長の黒板行二︵旧姓‥西室︶、東芝元社長の西室泰三兄弟の長兄・西室陽一は東京ガスの専務を務めたが社長ポスト争いに敗れ、関連企業の東京ガスエネルギー社長を最後に退職。脚注[編集]
- ^ 鷹之台ゴルフ株式会社 の有価証券報告書
- ^ “秘書生活21年の秘史胸に”. 日経産業新聞: p. 3. (1981年7月17日)
- ^ “若返りへ引き時 - 永野日本商工会議所会頭・稲山経団連会長、新日鉄取締役を退任”. 日経産業新聞: p. 19. (1983年5月13日)
- ^ “新日本製鐵(会社人事)”. 日経産業新聞: p. 15. (1995年5月1日)
- ^ “新日鉄、九石株を売却へ”. 日経産業新聞: p. 24. (2008年3月19日)
- ^ “勝俣孝雄氏死去(元九州石油〈現JXTGエネルギー〉社長)”. 時事ドットコム. (2019年3月19日) 2019年3月19日閲覧。
- ^ 【訃報】 JXTGホールディングス名誉顧問 勝俣孝雄氏 – 日刊ケミカルニュース