坂上望城
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坂上望城 | |
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時代 | 平安時代中期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 天元3年(980年)8月? |
官位 | 従五位下・石見守 |
主君 | 村上天皇→冷泉天皇→円融天皇 |
氏族 | 坂上氏 |
父母 | 父:坂上是則 |
子 | 兼範、厚範 |
坂上 望城︵さかのうえ の もちき︶は、平安時代中期の貴族・歌人。加賀介・坂上是則の子。官位は従五位下・石見守。梨壺の五人の一人。
経歴[編集]
生年未詳[1]。没年は天延3年︵975年︶説、天元3年︵980年︶説、貞元3年︵978年︶があるが、いずれも疑問とされる[1]。 村上朝の天暦3年︵949年︶越前掾に任ぜられるが、天暦6年︵952年︶西市正に遷ると、天徳3年︵959年︶内蔵允と京官を歴任する。 康保4年︵967年︶権少外記次いで少外記、安和2年︵969年︶大外記と冷泉朝から円融朝初頭には外記を務める。天禄元年︵970年︶従五位下・美濃介に叙任されると、天延3年︵975年︶石見守とその後は地方官を歴任した。 三十六歌仙の一人である父・是則と同様に和歌に優れ、天暦5年︵951年︶に村上天皇の命により昭陽舎に置かれた和歌所の寄人︵御書所預︶となり[1]、梨壺の五人の一人として﹃万葉集﹄の訓読や﹃後撰和歌集﹄の撰集にあたった[1]。﹃天徳内裏歌合﹄にも出詠している[1]。﹃勅撰和歌集﹄には﹃拾遺和歌集﹄﹃後拾遺和歌集﹄に1首ずつ作品が入集している[1][2]。家集は伝わっていない。 ﹃八雲御抄﹄では、﹁茂材︵もちき︶、時文はただ父が子といふばかりなり﹂と、紀時文と並ぶ親の七光りとして酷評された[1]。官歴[編集]
注記のないものは﹃外記補任﹄による。- 天暦3年(949年) 正月:越前掾
- 天暦6年(952年) 12月:西市正
- 天徳3年(959年) 日付不詳:内蔵允
- 康保4年(967年) 正月20日:権少外記。10月28日:少外記
- 安和2年(969年) 10月19日:大外記
- 天禄元年(970年) 11月20日:従五位下。12月16日:美濃介
- 時期不詳:美濃権守
- 天延3年(975年) 4月:石見守
- 天元3年(980年) 8月:卒去[3]
系譜[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 井上幸治編『外記補任』八木書店、2005年