報専坊
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報専坊 | |
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所在地 | 広島市中区寺町3-3 |
位置 | 北緯34度24分13.8秒 東経132度26分58.0秒 / 北緯34.403833度 東経132.449444度座標: 北緯34度24分13.8秒 東経132度26分58.0秒 / 北緯34.403833度 東経132.449444度 |
山号 | 無障山 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
法人番号 | 9240005000599 |
歴史
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元弘元年︵1331年︶、安北郡勝木村行森︵現 広島市安佐北区︶にある菅澤山の麓にて創建された。もとは実相山法泉寺という真言宗の寺だったが、文明年間︵1469年から1486年︶に円佐という住侶が蓮如に帰依し、浄土真宗に帰入した。その後寺号を﹁報専坊﹂と改めた。元禄6年︵1693年︶、9代宗淳の時に現在の寺地に移った。
江戸時代中期には、芸轍︵安芸学派︶の祖とされる慧雲が住職となる。自坊に私塾・甘露社を設け、大瀛︵三業惑乱時の論客︶や僧叡︵石泉学派の祖︶ら多くの学僧を育てた。慧雲は神祗不拝を徹底するため門徒に神棚を撤廃させ﹁神棚おろしの報専坊﹂との異名をとった一方で、法事と食事を兼ねた僧侶と門徒の懇親会である﹁お寄り講﹂を集落単位に推進し、安芸門徒の結束をはかった。
本堂は1787年︵天明7年︶建立の大伽藍であったが、1945年︵昭和20年︶8月6日の原子爆弾投下で全壊した。現在の本堂は、1993年︵平成5年︶に再建された。その際、イチョウの木を切るのもやむを得ないとの声も挙あがったが、住職らの願いにより保存されることになった。そのため本堂の階段は、イチョウの樹を包み込むような構造となっている。[1][2]。
脚注
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(一)^ 杉原梨江子﹁No.19 報専坊のイチョウ﹂﹃被爆樹巡礼 原爆から蘇ったヒロシマの木と証言者の記憶﹄実業之日本社、2015年。ISBN 978-4408008813。2016年10月23日閲覧。
(二)^ イチョウ (報専坊内) - ヒロシマをさがそう!〜市民と作る被曝地図〜 NHK