外套 (小説)
外套 Шинель | |
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イーゴリ・グラーバリによる表紙(1890年代) | |
作者 | ニコライ・ゴーゴリ |
国 | ロシア |
言語 | ロシア語 |
ジャンル | 短編小説 |
刊本情報 | |
出版年月日 | 1842年 |
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﹁外套﹂︵がいとう、露: Шинель︶は、ニコライ・ゴーゴリの短編小説。1842年出版。
本作は近代ロシア文学の先駆けとなり、多くのロシア作家に影響を与えた。ドストエフスキーが、﹁我々は皆ゴーゴリの﹃外套﹄から生まれ出でたのだ﹂と語ったと言われるが、実際にはフランスの外交官ヴォギュエの言葉とされる[1][2]。
あらすじ[編集]
ペテルブルクに住む主人公アカーキイ・アカーキエウィッチ︵父の名をつけられ、父称と名が同じ︶は下級役人であった。仕事ぶりは真面目で、およそ小説の題材となりえるとは程遠い生活を送っていた。彼は修繕に修繕を重ね、同僚からは半纏と揶揄されるほど使い古された外套が、ついに修繕が不可能なことを知らされた。そこでアカーキイは外套を新調することにした。新調するには80ルーブリかかるが、それは大変な出費だった。預金や予想外の収入などにより、80ルーブリになんとか当てがつき、外套の代金が溜まった。新品の外套が手に入り、アカーキイは幸せな気持ちだった。およそ楽しみといったものはなく、仕事を機械的にこなすだけの日々だけだった彼にとって、それは画期的な大事件だった。それは同僚にも同じことで、新調した外套を着ていった日は、その話で役所中で持ちきりとなり、彼の外套のために祝杯をあげる騒ぎとなった。 ところがその帰り道で、大切な外套を追剥に奪われる。アカーキイは外套を取り戻そうと、警察署長や有力者に尽力してもらえるように頼む。どちらにも相手にしてもらえず、おまけに叱責されてしまう。これらのことが重なり、彼は熱に倒れて、外套のためにそのまま死んでしまう。 話はここで終わらなかった。アカーキイが亡くなった直後から、妙な噂が街に流れ始めた。夜な夜な官吏の格好をした幽霊が盗まれた外套を探して、道行く人から外套を追い剥ぐというものだった。一方、アカーキイ・アカーキエウィッチに外套を取り戻すよう頼まれたが叱責した有力者は、外套の男がどうなったかを部下に尋ね、既に病気で死んだことを知ると後悔した。ある日、有力者は愛人の家に向かう道中、件の幽霊に出会う。果たして、それはアカーキイだった。アカーキイは、いつぞやの有力者とわかると恨み言を言い、有力者の外套を奪う。その日から有力者は以前ほどの高慢な態度をとらなくなり、アカーキイの幽霊も姿を現さなくなった。その後、別の街で官吏の幽霊が見られると噂が流れ、実際に一人の巡査が目撃したが、その姿は背が大きく、大きな口ひげがある別の幽霊だったという。主な日本語訳[編集]
●﹃外套・鼻﹄︵平井肇訳、岩波文庫、1949年 / 改版、2006年︶ ●外部リンクの青空文庫に全文掲載。 ●﹃外套﹄︵吉原武安訳註、大学書林、1963年︶ ●﹃外套・鼻﹄︵吉川宏人訳、講談社文芸文庫、1999年︶ ●﹃ペテルブルグ物語 ネフスキイ大通り・鼻・外套﹄︵エイヘンバウム編、船木裕訳、群像社、2004年︶ ●﹃鼻/外套/査察官﹄︵浦雅春訳、光文社古典新訳文庫、2006年︶ ●﹃外套﹄︵児島宏子訳、未知谷、2009年︶注釈[編集]
(一)^ ドストエフスキーの全著作および書簡に、この言葉は存在しない︵﹃作家の日記﹄に書いたとする松岡正剛の記述は誤り︶。 この言葉︵Nous sommes tous sortis du Manteau de Gogol︶の初出は、フランスの外交官で文人のウージェーヌ=メルシオール・ド・ヴォギュエ︵Eugène Melchior de Vogüé, 1848-1910︶がその著作﹃ロシア小説﹄︵Le Roman russe, 1886年刊︶のドストエフスキーを論じた章で、﹁四十年来文学の歴史に深く関わってきた一人物﹂の口に託した言葉であり、それがあたかもドストエフスキーその人の発言であるかのように誤って広まったとされている︵青山太郎著﹃ニコライ・ゴーゴリ﹄︵河出書房新社、1986年9月︶、411ページ︶。 (二)^ オーランドー・ファイジズ﹃ナターシャの踊り ロシア文化史﹄︵鳥山祐介ほか訳、白水社、2021︶の322p訳注1に、ヴォギュエの言葉とある。外部リンク[編集]
- 『外套』:新字新仮名 - 青空文庫(平井肇訳)