大原孝四郎
大原 孝四郎︵おおはら こうしろう、1833年12月12日︵天保4年11月2日︶ - 1910年︵明治43年︶7月6日︶は、日本の実業家。大原孫三郎の父。
略歴[編集]
岡山藩士藤田伝吉の三男として生まれる。1858年︵安政5年︶に備中国窪屋郡倉敷村の庄屋・豪商大原壮平の養嗣子となり、幼名幸三郎を孝四郎と改名。儒学者森田節斎の簡塾、犬飼松窓の三餘塾に学んだ[1]。呉服、繰綿、米、金融を手広く営むとともに大地主であり、学問、絵、書を好む文化人でもあった。 1888年︵明治21年︶に倉敷紡績所︵クラボウ︶の初代頭取に就任すると、養父壮平が森田節斎から学んだ謙受説を社訓とした。これは﹁満は損を招き、謙は益を受く﹂という思想で、常にへり下った気持ちで、より高いものを求めて努力せよ、という内容であった[2]。また、社標としてその精神を表す﹁二・三のマーク﹂を採用した。これは現在もクラボウ、クラレにおいて使用されている[3]。 1891年︵明治24年︶7月15日には資金調達を円滑にするため倉敷銀行︵中国銀行の前身の一つ︶を設立し、頭取に就任する。 1906年︵明治39年︶、倉敷紡績社長および倉敷銀行頭取を退任した。親族[編集]
脚注・出典[編集]
- ^ 倉敷紡績百年史
- ^ 『大原孫三郎傳』〔大原孫三郎傳刊行会〕編、非売品、1983年。
- ^ 社是・社訓・社章|企業情報|クラボウホームページ
外部リンク[編集]
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