高階哲夫
(小田進吾から転送)
高階 哲夫 (たかしな てつお) | |
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基本情報 | |
出生名 | 瀬木三五郎 |
別名 |
高階哲応(本名) 小田進吾(筆名) |
生誕 | 1896年3月5日 |
出身地 | 富山県中新川郡滑川町 |
死没 | 1945年4月17日 |
学歴 | 東京音楽学校 |
職業 | ヴァイオリニスト、作曲家、指揮者 |
活動期間 | 1921年 - 1941年 |
共同作業者 | 村井満寿 |
高階 哲夫︵たかしな てつお、1896年︿明治29年﹀3月5日[1] - 1945年︿昭和20年﹀4月17日[2]︶は、日本のヴァイオリニスト、作曲家、指揮者。本名は高階哲応、出生名は瀬木三五郎[3]、筆名は小田進吾。博報堂の創設者である瀬木博尚は伯父にあたる[4]。
札幌市時計台敷地にある﹁時計台の鐘﹂歌碑
札幌での演奏会をきっかけに、札幌のシンボルとでもいうべき歌﹁時計台の鐘﹂を作詞・作曲した[4]。札幌での演奏会の内容を酷評されて落胆したとき、時計台の鐘の音に慰められ、それをヒントに作曲したと伝えられている[1]。
1923年(大正12年)12月23日に東京音楽学校奏楽堂で、伊達三郎、田中規矩士と演奏し、ベートーヴェントリオの基となる(﹃東京芸術大学百年史演奏編﹄より)。
1924年︵大正13年︶グスタフ・クローン指揮ベートーヴェン﹁第九﹂の本邦初演に出演。また、女優の川上貞奴が川上児童楽劇団を結成すると、その音楽指導にも当たった[4]。この時の教え子の1人、女優の清川虹子によれば、教え方は非常に厳しく、﹁間違えるとヴァイオリンの弓で何度も叩く、怖い先生﹂だったという[2]。
1928年︵昭和3年︶に初めての映画音楽として、牛原虚彦による映画﹃陸の王者﹄の主題歌﹁栄冠の歌﹂を作曲した[4]。翌1929年︵昭和4年︶から松竹映画の音楽顧問を務め、日本初のトーキー映画﹃マダムと女房﹄を始めとする松竹製作の映画の音楽を手がけた[4]。主題歌を作った映画の数は20本以上にのぼった[7]。
1931年︵昭和6年︶に満寿と離婚[8][9]。1934年︵昭和9年︶に松竹を退社し、同年に日本放送協会東京中央放送局の洋楽部員となり、同管弦楽団の指揮と作曲を担当した。
1936年︵昭和11年︶、小田進吾の名で島崎藤村の詩﹃朝﹄に曲をつけ、国民歌謡のヒット第一号となり、同じ筆名で薄田泣菫﹁白すみれ﹂、北原白秋﹁山は呼ぶ野は呼ぶ海は呼ぶ﹂などを作曲した[4]。
1941年︵昭和16年︶には名古屋中央放送局管弦楽団の指揮者に転じて、1942年︵昭和17年︶、名古屋市で最後のリサイタルを開催した[4]。1945年︵昭和20年︶に名古屋で、終戦を待たずして49歳で病死した[2][9]。
経歴[編集]
富山県中新川郡滑川町︵後の滑川市山王町︶で誕生した。生家の瀬木家は富山藩に仕えた家柄で、父は開達小学校(現在の滑川市立田中小学校)の校長、その三男として生まれる。伯父の瀬木博尚は博報堂の創設者。 1901年︵明治34年︶に天台宗の寺院・長泉寺を継承する高階家の養子となり、1906年︵明治39年︶に﹁哲応﹂に改名した[3][4]。 富山師範学校在学中に、先輩である浄誓寺の福井直秋の後を追い、東京音楽学校︵後の東京芸術大学︶への進学を決意し卒業後は1年余の浜加積尋常高等小学校訓導を経た。 1916年︵大正5年︶に東京音楽学校予科に入学した。本科器楽部ではヴァイオリンを専攻し、ドイツのヴァイオリニストであるグスタフ・クローンに師事した[4]。 1921年(大正10年)3月の卒業式ではダビットの﹁我は小さき鼓手なり﹂変奏曲を独奏した[5]。なお、(当時の)鈴木バイオリンの鈴木鎮一は、この年の卒業演奏を聴いたことにより欧州留学を決意している。 卒業後は東京女子音楽学校、日本音楽学校の講師を務めた[4]。その一方で、多基永、芝祐孟、杉山長谷夫ら音楽家たちと共に室内楽運動を展開し、各地で演奏会を開催した[4]。名バイオリン製作者として知られる宮本金八の第一号器(400円で購入)を愛用した。 1922年︵大正11年︶に、相澤ます子︵村井満寿︶と結婚した。この頃より、若手ヴァイオリニストの第一人者として次第に名声が高まった[6]。著作[編集]
- 『バイオリン奏法の秘訣』共益商社書店、1926年。全国書誌番号:43045175。
- 「時計台の鐘」作詞/作曲
- 「栄冠の歌」作曲
- 「朝」作曲
- 「白すみれ」作曲
- 「山は呼ぶ野は呼ぶ海は呼ぶ」作曲
- 「飛行第五十五戦隊歌」作曲