小野職愨
小野 職愨︵おの もとよし、1838年4月24日︵天保9年4月1日︶ - 1890年︵明治23年︶10月27日︶[1]は日本の植物学者である。田中芳男のもとで、明治の植物学の教育のための教科書の翻訳などを行った。
略歴[編集]
江戸に生まれた。父親は本草家の小野職孝︵もとたか︶で、小野蘭山は曾祖父である。通称は苓庵、号は薫山。はじめ医学を曲直瀬篁庵に学び、江戸幕府の医学館に出仕した。1861年、領土確定のために行われた咸臨丸の小笠原諸島巡察に、阿部喜任(1805-1870︶とともに医師として同行し、4ヶ月間小笠原で植物採集した[2]。維新後は大学南校に学び、文部省に入り、1872年に発足した文部省博物局で働いた。植物学の教育的著訳述に従事し、ジョン・リンドリーの、"School Botany"(1860︶の翻訳を行った。この翻訳の中で、日本最初の植物学術用語の英語、ラテン語、日本語の対訳辞典﹃植学訳筌﹄︵1874︶を出版し、"School Botany"の訳は﹃植学浅解﹄(1875)として出版された。田中芳男とともに、飯沼慾斎の﹃草木図説﹄20巻に学名と科名を付して﹃新訂草木図説﹄(1872)として出版した[2]。参考文献[編集]
- ^ 大場秀章編『植物文化人物事典』日外アソシエーツ、2007年。ISBN 4816920269
- ^ a b 『洋学史事典』 日蘭学会学術叢書