川崎三郎
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川崎 三郎︵かわさき さぶろう、1864年6月7日︵元治元年5月4日︶ - 1943年︵昭和18年︶5月12日︶は、日本の明治・大正期のジャーナリスト。文筆家、歴史家。茨城県出身。水戸藩士、川崎長蔵胤たね興よしの三男の子として生まれる。号は紫山を多用、他に剣外がある。
概要[編集]
水戸藩士の子として生まれたが、水戸弘道館は、1872年︵明治5年︶に閉校になり、学制発布後も水戸にはしばらく中等教育機関が存在せず、川崎は近代教育を受ける機会に恵まれなかった。彼は旧藩学の伝統を継承しようとする私塾、自強館(自強社、または自彊舎とも表記される)で学んだ[1]。17歳頃、1880年︵明治13年︶頃に上京。短期間、大蔵省勤めの後、ジャーナリズムに転じる。徴兵逃れのため﹁東京曙新聞﹂の編集者で経営者でもあった岡本武雄の親戚の家を継いで、北村の姓を名乗った。その後、大阪の大東日報社で記者となる。 大東日報は、立憲帝政党の機関誌として出発したのに、政府との間で齟齬が生じ、補助金を打ち切られ、立憲帝政党も1883年9月に解党したので、すぐに経営難に陥った。1891年︵明治24年︶国権主義を掲げる﹁経世新報﹂を創刊。1901年︵明治34年︶には立憲政友会の機関誌だった﹁中央新聞﹂の主筆になる。1905年︵明治38年︶﹁信濃毎日新聞﹂の主筆。著述家として[編集]
この間、彼は新聞記者としてだけでなく、著述家としても世に出る決意を固め、その第一作﹃新帝国策﹄は満23歳のときの出版である。第二作は、﹃東洋策﹄である。いずれも1888年︵明治21年︶刊行。前者は、国威的政治小説の先駆的作品で、後者は東洋経綸策の提示で、形式は違うが内容は関連している。列強、特に露に対する危機意識と彼独自の情勢判断に基づき、国内では立憲主義的な能動的君主政治を実現し、対外的には対露提携策(日露仏同盟)を外交の基軸とし、朝鮮併合、日清戦争とそれに続く日清同盟を実現し、東亜諸国が提携して、欧州列強と対抗するというのが川崎の構想であった[2]。その後、博文館の出版企画に参加して、著述家、史論家としての才能を世に知られるようになった。代表的な仕事としては、﹃万国歴史全書﹄(1889年~1890年刊行)のうち、﹃支那帝国史﹄上下巻、﹃印度史・亜細亜小国史﹄、﹃土耳機史・亜細亜古国史﹄[3]、﹃魯国史﹄、﹃日耳蔓史﹄[4]、﹃欧州列国史﹄の7冊を執筆した。さらに﹃万国百傑伝﹄全12冊(1890年~1891年)の企画を一人で担当。これは140人余りの世界的な偉人の伝記集成である。この後、﹃西南戦史﹄と﹃戊辰戦史﹄を1893年と1894年全巻に出版。特に﹃西南戦史﹄は、﹃増訂西南戦史﹄(博文館、1900年)、﹃西南記伝﹄(黒龍会本部、1909年~1911年、著者名はない)と改訂を重ねて彼の代表作となった。政治活動[編集]
こうした著述活動の一方で彼は天佑侠を後援し、黒龍会創設に参画。日中戦争が始まると大東亜共栄圏の確立に力を注いだ[5]。その他、徳富蘇峰を中心とした﹃公爵桂太郎伝﹄﹃公爵山県有朋伝﹄(全3巻、6分冊で2016年、周南市のマツノ書店から復刻版が刊行︶の編纂に参加。徳富蘇峰とは﹃日本国民史﹄執筆の手伝いもしている。著作[編集]
- 川崎三郎『新帝国策』興文社 1888年(明治21年)
- 松井広吉・川崎紫山編『日本百傑伝』全12冊 博文館 1891-1893年(明治24-26年)
- 川崎紫山『戊辰戦史』全12冊 博物館 1894年(明治27年)(復刻 マツノ書店 2012年)
- 川崎三郎『朝鮮革新策』博文館 1894年(明治27年)
- 川崎三郎『独佛戦史/万国戦史第1編』博文館 1896年(明治29年)
- 池宗墨著; 川崎三郎編『王道経綸論集』大東亜協会 1941年(昭和16年)
- 川崎三郎『日記より見たる乃木将軍』興文社 1942年(昭和17年)
- 川崎三郎『大西郷と大陸政策』興文社 1942年(昭和17年)
- 徳川光圀[撰] ; 川崎紫山訳註『譯註大日本史』大日本史普及会編 1964年(昭和39年)
- 川崎三郎『西南戦史』大和学芸図書 1977年(昭和52年)
- 池宗墨著 ; 川崎三郎校『孔子論』ゆまに書房 2021年(令和3年)