恭粛皇貴妃
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恭粛皇貴妃︵きょうしゅくこうきひ、1857年 - 1921年4月14日︶は、清の同治帝の側妃。姓はアルト︵阿魯特︶氏︵Alut hala︶[1]。サイシャンガの庶出の娘。孝哲毅皇后の叔母にあたる。
同治11年︵1872年︶、数え16歳のとき、3年ごとに紫禁城で行われる后妃選定面接試験﹁選秀女﹂を受けて合格する。9月、同治帝の後宮に入って﹁珣嬪﹂となった。
光緒帝の即位後、珣妃に尊封された。光緒20年︵1894年︶、西太后の大寿︵60歳︶の祭典で珣貴妃に尊封された。宣統帝の即位後、珣皇貴妃に尊封された。宣統帝の退位後、清室から荘和皇貴妃と尊称された。
1921年4月14日に紫禁城内で薨去した。﹁恭粛﹂と諡され、恵陵の妃園寝に陪葬された。
脚注[編集]
- ^ 『八旗満洲氏族通譜』満文版巻六十九五葉表(東京大学アジア研究図書館デジタルコレクションにて参照)。
関連項目[編集]
伝記資料[編集]
- 『清史稿』
- 同治11年珣嬪冊文