政尾藤吉
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政尾 藤吉︵まさお とうきち、明治3年11月17日[1]︵1871年1月7日︶ – 大正10年︵1921年︶8月11日[2]︶は、日本の衆議院議員︵立憲政友会︶、駐シャム︵タイ︶公使。法学博士。
経歴[編集]
伊予国喜多郡大洲町︵現在の愛媛県大洲市出身。大洲藩御用商人政尾勝太郎の長男[3]。1888年に17歳で家出同然で故郷を離れ、大阪川口のミッション・スクールを経て、同年秋、慶應義塾に入学[4]。同人社を経て、1889年に東京専門学校︵現在の早稲田大学︶英語普通科を卒業した[3]。1890年、関西学院の神学部に入学し、宣教師サミュエル・ウェンライトの家に寄宿し、パルモア学院で英語教師も務めた[4]。ウェンライトにると、藤吉は﹁まれにみる秀才﹂だったという[4]。 翌年にアメリカ合衆国への留学に出発した[3]。最初、テネシー州ヴァンダービルト大学神学部に入学したが、1893年に方向転換し、ウェストバージニア大学ロースクールに入学して1895年に卒業した[3]。1896年、イェール大学を卒業し、法学修士号を得、翌年には同大学から民事法博士号を得た[1]。 帰国後、ジャパン・タイムズの記者となったが、外務省の委嘱でシャムに派遣された。1898年、総務顧問補佐となり、1902年に法律顧問となった[1]。1903年、主席法律顧問に就任し、1913年まで務めた。法典編纂の功績で侯爵に叙任され、王族待遇を受けた[5]。 シャムから帰国後は、1915年の第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1917年の第13回衆議院議員総選挙でも再選された。 1920年12月、駐シャム公使に任命されたが、翌年8月、在任中に死去した[6]。家族[編集]
栄典[編集]
- 外国勲章佩用允許