文化アパートメント
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文化アパートメント | |
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情報 | |
用途 | 集合住宅 |
設計者 | W・M・ヴォーリズ |
施工 | 大林組 |
建築主 | 財団法人文化普及会 |
事業主体 | 財団法人文化普及会 |
管理運営 | 財団法人文化普及会 |
構造形式 | 鉄筋コンクリート造 |
延床面積 |
※837坪 |
状態 | 解体 |
階数 | 地下1階、地上5階[1] |
竣工 | 1925(大正14)年 |
開館開所 | 1926(大正15)年 |
解体 | 1986(昭和61)年 |
所在地 | 東京都文京区元町一丁目五番地[2] |
文化アパートメント︵ぶんかアパートメント︶は、現在の東京都文京区にかつてあった共同住宅。大正後期、森本厚吉が設立した財団法人文化普及会︵文化普及會︶によって建設された、日本初の洋式集合住宅である[3][4][5]。
1923年︵大正11年︶着工[6]・1925年︵大正14年︶竣工[7]。1926年︵大正15年︶12月に開館。アパートとしては1943年︵昭和18年︶に閉鎖[8]され、建物はその後宿泊施設などに転用され、1986年︵昭和61年︶に取り壊された。
概要[編集]
W・M・ヴォーリズによって設計され、施工は大林組。住居内はすべて純洋式。ベッド、椅子、テーブル、電話、ガス調理台、マントルピース、そして共用の施設として社交室、カフェ、食堂、店舗が用意され、エレベーター、焼却炉が備わっており、掃除・洗濯はメイドが行い、アパートよりもホテルの生活に近かった[3][7]。 家賃は坪当たり10円で最小の部屋は119円︵11.9坪︶、最大の部屋は316円︵31.6坪︶。光熱費は実費相当額を決めて支払うこととされていた[9]。なお、この頃の大卒サラリーマンの初任給は1月50円から60円であった[10]。 第二次世界大戦後は、進駐軍将校の宿舎として使われ、その後旺文社に売却され、受験生や修学旅行生の都内宿泊施設﹁日本学生会館﹂として利用されたが、1986年︵昭和61年︶に老朽化のため取り壊された。跡地にはイギリス人ノーマン・フォスターによる設計のオフィスビル﹁センチュリータワー﹂︵1991年竣工︶が建設された。 江戸川乱歩の諸作品に登場する探偵・明智小五郎が自宅兼探偵事務所とする﹁開化アパート[11]﹂のモデルといわれる[7]。脚注[編集]
(一)^ 着工直前の関東大震災の影響で、四階建てに変更。昭和7年になって、増築されて当初の予定通りの五階建てになった。服部岑生著﹃﹁間取り﹂の世界地図 暮らしの知恵としきたり﹄︵2006年、青春出版社、76〜82ページ︶
(二)^ 現在の文京区本郷2-2-9
(三)^ ab“文化アパートメントの生活 日本初めてのアパートメント・ハウス”. 新渡戸文化学園. 2013年12月28日閲覧。
(四)^ “御茶の水の文化普及会文化アパート”. 大林組. 2014年1月7日閲覧。
(五)^ “吉野作造と建築”. 吉野作造記念館. 2014年1月7日閲覧。
(六)^ 岩波書店編集部︵編︶﹃近代日本総合年表︵第一版︶﹄p.256︵NDLJP:3449154/141︶。同書では同年に﹁完成﹂としているが他の出典のとおり誤り。
(七)^ abc“お茶の水文化アパートメント”. 一粒社ヴォーリズ建築事務所. 2022年10月24日閲覧。
(八)^ “森本厚吉年譜”. 新渡戸文化学園. 2022年10月24日閲覧。
(九)^ ﹁御茶ノ水に文化アパートが完成﹂﹃時事新報﹄1925年10月14日︵大正ニュース事典編纂委員会 ﹃大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年﹄本編p.493 毎日コミュニケーションズ刊 1994年︶
(十)^ “お金のコラム集”. auじぶん銀行 (2020年7月2日). 2023年8月23日閲覧。
(11)^ ﹃兇器﹄︵昭和29年︶に﹁采女町の開化アパートの二階へ引っ越しており、事務所兼住宅にしていた。﹂との記述がある。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 御茶の水の文化普及会文化アパート - 大林組
- 新渡戸文化学園 文化普及会と文化アパートメント-1 - ウェイバックマシン(2013年12月26日アーカイブ分)
- 東京文化学園:文化アパートメントの生活 - ウェイバックマシン(2013年12月26日アーカイブ分)