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景泰帝︵けいたいてい︶は、明の第7代皇帝。諱は祁鈺︵きぎょく︶︵鈺は金偏+玉︶。諡号は符天建道恭仁康定隆文布武顕徳崇孝景皇帝︵しばしば景帝と略される︶。廟号は代宗。日本では治世中の元号から一般的に景泰帝と称されている。
宣宗宣徳帝の次子として生まれる。兄・正統帝︵英宗︶の即位後、郕王に封じられる。土木の変で正統帝がオイラトに囚われると、北方の脅威を感じた群臣により南京遷都論が出されたが、兵部侍郎︵軍事次官︶の于謙が、南遷後に滅亡した南宋を例示し南遷論を排除すると共に、北京にて皇太后孫氏の命により祁鈺が、まず監国に、次いで皇帝に即位した。
景泰帝は土木の変における最大の責任者である王振一族を粛清、財産を没収した。そして新たに于謙を登用し、オイラトによる包囲から北京を防衛している。オイラトのエセンも今回の北京攻撃は明朝に対し朝貢貿易の優遇を求めた結果であり、包囲の長期化による経済的負担を考慮して明朝との講和が成立した。講和により正統帝も送還されたが、景泰帝は正統帝を軟禁し太上皇︵上皇︶の尊号を与えつつ政治権力を剥奪すると共に、正統帝の息子である朱見深を立太子するなどの懐柔策を提示している。
土木の変以降の景泰帝は于謙を中心に、北防体制を建て直しを行っている。また一度は朱見深を立太子した景泰帝であったが、自らの嫡子への皇統継承を画策し、景泰3年︵1452年︶に息子の朱見済を立太子した。この廃立を巡り反対派の朝臣を宥和するため金を下賜したことより、後に﹁臣下に賄賂を贈る皇帝﹂と嘲笑の対象とされた。
このようにして立太子された朱見済であるが、翌年に薨去している。また景泰帝自身も景泰8年︵1457年︶に病臥し、朝臣より後継者の決定を促す奏上がなされるが、朱見済に嫡子のいなかった景泰帝は後継者指名を行わずにいた。この状況に、正統帝に近い石亨、徐有貞、曹吉祥らは正統帝の復辟を画策し、正統帝を軟禁されている宮殿から脱出させ、病床の景泰帝は抵抗することなく正統帝︵天順帝︶が重祚した︵奪門の変︶。帝位を追われた景泰帝は間もなく崩御したが、暗殺されたとする説もある。享年30。
崩御後は歴代皇帝の陵墓群が位置する天寿山︵いわゆる明の十三陵がある地区︶ではなく、頤和園西部の玉泉山の北方、金山の貴族陵墓地に埋葬された。天順帝は殉葬の習慣に反対していたが、景泰帝に対する憎しみから、最後の殉葬として唐氏︵景泰帝の寵妃︶を殉死させた。景泰帝の死後すぐには悪い意味の諡号・戻王が贈られた。明実録では廃帝と呼ばれている。
成化帝︵朱見深︶の代になって恭仁康定景皇帝という簡易な諡号が贈られた。他の明朝皇帝同様に長い諡となった符天建道恭仁康定隆文布武顕徳崇孝景皇帝の号、および廟号の代宗は、南明によって弘光元年︵1645年︶に贈られている︵清ではこの改諡を認めず、恭仁康定景皇帝の諡号を用い続けた︶。