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李 宗吾︵り そうご、拼音‥Lǐ Zōngwú、1879年2月3日︵清光緒5年正月13日︶ - 1943年︵民国32年︶9月28日︶は、清末民初の学者・著述家。もとの名は﹁世全﹂・﹁世楷﹂。字は﹁宗儒﹂、﹁厚黒教主﹂とも号す。もう一つの筆名は﹁独尊﹂。
光緒5年︵1879年︶、四川省叙州府富順県自流井に生まれる。もとの名は﹁世全﹂であったが、学業を終了する頃に﹁世楷﹂、字を﹁宗儒﹂と改めた。儒教を学び、孔子を尊崇していたことからつけた名である。25歳の時に思想は大いに変化し、孔孟の道は結局自分の目指すべき道ではないと考え、﹁宗吾﹂と改名した。
科挙に及第して古今の学に通じ、早くから中国同盟会に加入し長期にわたり教育活動に従事する。中国校長・省議員・省長署・教育庁副庁長・督学などを歴任。十年の官界での生活をへて、その腐敗しきった環境に愛想をつかして隠栖し、もっぱら著述の筆をとる。郷里で病没、享年64歳。
著作と著作活動[編集]
1911年から成都の公論日報に﹁厚黒学﹂﹁厚黒経﹂﹁厚黒伝習録﹂と名づけた文章を発表し始めたところ、世論の反響が大きく物議の種となったために、掲載を中断した。1927年に﹁宗吾放談﹂と名を変えて改定した文章から、1934年に﹃厚黒学﹄3巻を抜きだして成都で刊行したところ、即日で売りつくしたという。林語堂が主宰していたユーモア雑誌﹃上海論語半月刊﹄に転載されたこともある。1937年﹃厚黒学﹄で提出した懐疑に対する解答として﹃心理と力学﹄を発表した。﹁二十四史﹂﹁四書五経﹂や漢学に対する深い教養と疑惑を兼ね備え、﹁歴史を動かそうとする人物は厚顔無恥︵厚黒︶であれ﹂という逆説的な主張、論語などの古典をまねた皮肉な表現により、﹁中国文化的20大奇才﹂と呼ばれることもある。
日本での刊行[編集]
日本では1978年に、葉室早生訳﹃厚黒学︵ずぶとく はらぐろい がく︶﹄として、五月書房から初出版された。1998年に徳間書店から﹃厚黒学 厚かましくかつ腹黒く生きよ﹄の題で尾鷲卓彦訳で再出版され、2002年に文庫化︵徳間文庫︶、2016年3月に再文庫化︵徳間文庫カレッジ︶された。