東洋越陳人
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東洋 越陳人︵とうよう えっちんじん、天保7年︵1836年︶ - 大正5年︵1916年︶︶は、江戸時代末期から大正時代にかけての日本の文人画家。本名は服部郡平︵はっとりぐんへい︶。
経歴[編集]
子供時代[編集]
天保7年︵1836年︶生まれ。頸城郡野村︵現・上越市三和区野︶の農家の次男。寺子屋に通い、漢学に明るく絵を描くことが得意な子で天童と呼ばれたという。修行時代[編集]
20歳になったころ、医学を志して長崎へ旅立つ。長崎三画人の一人で禅宗の僧侶だった鉄翁祖門(てつおうそもん)に弟子入りして絵の勉強をしたが、医師になる勉強はしなかった。30歳になろうかというころ、師から﹁越陳人﹂の号を与えられて独立。画家として独立後[編集]
生活は苦しく按摩︵あんま︶や傘作りをして暮らしたと伝えられている。絵の勉強をしながら20年あまり全国を放浪し、40歳を過ぎた明治10年︵1877年︶に帰郷、新潟や北陸地方を旅しながら絵を描いた。新潟県から推薦されて明治15年︵1882年︶の全国絵画共進会に代表作﹁苗名滝(なえなたき)﹂ほか2点を出品、明治天皇による天覧の名誉を受け、全国に名を知られることとなった。上越地方を中心に旅をしながら画作にふける毎日を送り、明治19年︵1886年︶に直江津五智に居を構え、ここが終の棲家となった。名声を得た後も貧しく、好きな酒を飲みながらの自由な生活を好み、頼まれて絵を描く人生を送った。80歳で没し、五智の光源寺(こうげんじ)に墓がある。参考図書[編集]
- 東洋越陳人 上越市HP