植草信和
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うえくさ のぶかず 植草 信和 | |
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生誕 |
1949年??月??日 千葉県市川市 |
国籍 | 日本 |
民族 | 日本人 |
出身校 | 東洋大学(中退)[1] |
職業 | フリー編集者 |
活動期間 | 1969年(昭和44年) - 現在 |
肩書き | 映画雑誌『キネマ旬報』元編集長 |
前任者 | 黒井和男 |
植草 信和︵うえくさ のぶかず、1949年︿昭和24年﹀ - ︶は、日本の編集者。映画雑誌﹃キネマ旬報﹄の元編集長。
略歴[編集]
千葉県市川市生まれ。1970年︵昭和45年︶2月にキネマ旬報社に入社。1991年︵平成3年︶に映画雑誌﹃キネマ旬報﹄の編集長に就任。退社後の2006年に映画製作・配給会社﹁太秦株式会社﹂を設立、現在は非常勤顧問[2]。人物[編集]
1969年東洋大学文学部3年の時に﹁大好きな映画を見て、あこがれの編集の仕事もできる﹂と、キネマ旬報社でアルバイトを始める。正社員になることを誘われたため、大学を中退し入社した。当時は﹁良くも悪くも白井佳夫氏の個人商店﹂で、﹁僕を含めて、二十代前半の4人だけが編集者。経営的にも苦しかった﹂という。読者プレゼントの切手代さえ払えず、提供先の映画会社に出してもらったこともあった[3]。 白井、黒井和男の個性の強い2人の後任編集長として、没個性にならないよう気を付けながらも﹁第一義的には良い雑誌を作ること。編集長は裏方に徹し﹂﹁批評性と記録性を重視﹂しながらも﹁作品や業界の記録は編集者が努力すればできるが、批評性は良い書き手がいなくては保てない﹂として、﹁ビビッドな感覚で、作品に負けない批評を書ける映画評論家を多く育てる方針﹂を掲げて、若手に書かせるページを割いた。結果的に白井の編集方針に似るのだが、﹁僕は白井さんの門下生。似てくるのは仕方ない﹂としている[3]。 産経新聞によるインタビューの際、一番好きな映画を尋ねられて﹁︵日活の青春映画を見て育ったため︶石原裕次郎や吉永小百合が好きだった。いなか育ちだから、あの都会的な雰囲気にあこがれたと思う。﹃キネ旬﹄編集長のイメージと違うけれど﹂と答えている。著書[編集]
共著[編集]
編集[編集]
- 『キネマ旬報 臨時増刊 世界映画オールタイム・ベストテン(キネマ旬報社、1995年)
- 『押井守全仕事 「うる星やつら」から「攻殻機動隊」まで』(キネマ旬報社、1996年)
- 『キネ旬ムック フィルムメーカーズ(1)リュック・ベッソン』(竹内正年・著、キネマ旬報社、1997年)
- 『キネ旬ムック フィルムメーカーズ(2)北野武 TAKESHI KITANO』(淀川長治 ・著、キネマ旬報社、1998年)
- 『キネ旬ムック フィルムメーカーズ(3)クエンティン・タランティーノ』(土橋寿男・著、キネマ旬報社、1998年)