渡辺武雄
渡辺 武雄︵わたなべ たけお、1914年9月24日[1] - 2008年3月17日︶は、日本の演出家、振付家[2]。第二次世界大戦後、長く宝塚歌劇団で活動し、名誉理事となった[3][2][4]。
経歴[編集]
台湾の台北市生まれ[3][2]。 1933年、関西学院大学に入学して劇研究会に所属し、同期生であった高木史朗に紹介された白井鐵造の助言で[4]、出口秀子に師事してバレエを学ぶ[3]。 1938年、大学を中退して上京し、高木史朗に紹介された日劇ダンシングチームの振付家・益田隆の助手となり、1940年には東宝舞踊隊公演﹃燃ゆる大地・台湾﹄で、初めて本格的な演出を手がけた[3]。 その後、活動の拠点を東京から大阪へ移し、大阪松竹少女歌劇団 (OSK) を経て、1946年に大阪・梅田劇場の東宝ダンシングチーム設立に参画するとともに、関西学院大学に復学して1949年に卒業した[4]。 この間、1948年10月に宝塚歌劇団・雪組公演﹃アロハ・オエ﹄で、初めて宝塚の振付を担当し、以降、數多くの作品を手がけてから、1951年の星組公演﹃虞美人﹄で正式に宝塚歌劇団に入団した[3][4]。 1958年4月に宝塚歌劇団内に日本郷土芸能研究会︵後の郷土芸能研究会︶が設けられると、その活動の中核を担い、そこから生まれた民俗舞踊シリーズの演出と振付を手がけた[3]。特にシリーズ第4作、1961年8月の雪組公演﹃火の島﹄は、芸術祭賞大賞、レインボー賞、テアトロン賞を受賞した[3]。 1991年には、勲四等瑞宝章を受章した[2][4]。 2008年3月17日、肺炎のため死去[1]。 2014年には、﹃宝塚歌劇の殿堂﹄最初の100人のひとりとして殿堂入りした[5]。脚注[編集]
(一)^ ab﹃現代物故者事典2006~2008﹄︵日外アソシエーツ、2009年︶p.702
(二)^ abcd“戦後の宝塚歌劇を支えた渡辺武雄氏が死去”. 日刊スポーツNEWS (2008年3月18日). 2022年9月25日閲覧。
(三)^ abcdefg“民俗芸能から世界へ〜渡辺武雄が託す、未来への夢〜”. タカラヅカ・スカイ・ステージ. 2022年9月25日閲覧。
(四)^ abcde“すみれの園を創る人たち 演出・振付家(名誉理事) 渡辺武雄”. 産経新聞 (2004年). 2022年9月25日閲覧。
(五)^ 村上久美子 (2014年1月11日). “宝塚が八千草薫ら殿堂100人を発表”. 日刊スポーツNEWS. 2022年9月25日閲覧。