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石田寿
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この項目では、裁判官について説明しています。歩兵第102旅団長などを歴任した陸軍軍人については「
石田寿 (陸軍軍人)
」をご覧ください。
石
田
寿
︵
い
し
だ
ひ
さ
し
、
1
8
9
5
年
4
月
11
日
-
1
9
6
2
年
2
月
20
日
︶
は
、
日
本
の
裁
判
官
。
長
崎
地
方
裁
判
所
所
長
、
京
都
地
方
裁
判
所
所
長
、
高
松
高
等
裁
判
所
長
官
な
ど
を
歴
任
し
た
。
経
歴
[
編
集
]
福
岡
地
方
裁
判
所
判
事
な
ど
を
務
め
た
石
田
精
一
の
二
男
と
し
て
福
岡
市
に
生
ま
れ
る
。
1
9
1
3
年
福
岡
県
立
中
学
修
猷
館
[
1
]
、
1
9
1
6
年
第
五
高
等
学
校
独
語
法
律
科
[
2
]
を
経
て
、
1
9
2
0
年
東
京
帝
国
大
学
法
学
部
独
法
科
[
3
]
を
卒
業
す
る
[
4
]
。
在
学
中
の
1
9
1
9
年
に
は
高
等
文
官
試
験
行
政
科
に
合
格
し
て
い
る
。
東
大
在
学
中
は
後
の
首
相
広
田
弘
毅
が
創
設
し
た
学
生
寮
﹁
浩
浩
居
﹂
で
生
活
し
て
お
り
、
そ
の
頃
か
ら
広
田
と
の
信
頼
関
係
が
築
か
れ
た
。
卒
業
後
、
三
菱
合
資
会
社
に
一
時
勤
務
す
る
が
[
4
]
、
1
9
2
2
年
司
法
官
試
補
と
な
り
横
浜
地
方
裁
判
所
に
勤
務
す
る
。
1
9
2
4
年
東
京
地
方
裁
判
所
判
事
と
な
り
、
そ
の
後
東
京
控
訴
院
判
事
を
務
め
、
1
9
3
6
年
3
月
に
広
田
内
閣
が
誕
生
す
る
と
広
田
弘
毅
か
ら
総
理
大
臣
秘
書
官
に
抜
擢
さ
れ
る
[
4
]
。
翌
年
の
内
閣
総
辞
職
で
一
旦
東
京
地
裁
刑
事
部
長
と
な
る
が
、
4
月
に
外
務
大
臣
に
転
じ
た
広
田
に
再
び
呼
び
戻
さ
れ
、
外
務
省
嘱
託
と
し
て
ヨ
ー
ロ
ッ
パ
へ
出
張
し
、
広
田
か
ら
の
親
書
を
携
え
て
ヒ
ト
ラ
ー
、
ム
ッ
ソ
リ
ー
ニ
ら
と
の
単
独
会
見
な
ど
を
行
っ
て
い
る
。
そ
の
後
、
司
法
省
大
臣
官
房
会
計
課
長
、
東
京
区
裁
判
所
監
督
判
事
を
経
て
、
1
9
4
5
年
3
月
長
崎
地
方
裁
判
所
所
長
に
就
任
す
る
。
同
年
8
月
9
日
、
所
長
官
舎
で
原
爆
に
襲
わ
れ
、
本
人
は
無
事
だ
っ
た
が
[
4
]
、
長
女
の
雅
子
は
女
学
生
と
し
て
学
徒
動
員
中
の
工
場
で
被
爆
し
て
い
る
。
そ
の
後
、
雅
子
は
九
州
帝
国
大
学
医
学
部
附
属
医
院
に
入
院
し
な
が
ら
被
爆
当
時
の
様
子
を
記
し
て
石
田
へ
書
簡
と
し
て
送
っ
て
お
り
、
石
田
は
雅
子
の
書
簡
を
﹁
被
爆
の
記
録
﹂
と
し
て
出
版
す
る
こ
と
を
決
意
し
、
当
初
G
H
Q
か
ら
の
発
行
禁
止
処
分
を
受
け
た
が
、
粘
り
強
い
努
力
に
よ
っ
て
1
9
4
9
年
2
月
に
﹃
雅
子
斃
れ
ず
﹄
と
し
て
刊
行
さ
れ
た
。
ま
た
、
原
爆
資
料
の
保
存
や
平
和
祈
念
像
建
設
を
推
進
し
、
長
崎
国
際
文
化
協
会
会
長
、
長
崎
ユ
ネ
ス
コ
協
力
会
会
長
な
ど
も
務
め
た
[
4
]
。
1
9
5
1
年
京
都
地
方
裁
判
所
所
長
を
経
て
、
1
9
5
7
年
8
月
高
松
高
等
裁
判
所
長
官
に
就
任
し
た
が
、
1
9
5
9
年
4
月
脳
出
血
を
お
こ
し
て
倒
れ
、
1
9
6
0
年
2
月
健
康
上
の
理
由
で
退
官
し
た
。
1
9
6
2
年
2
月
20
日
東
京
大
学
医
学
部
附
属
病
院
に
お
い
て
死
去
。
石
田
の
葬
儀
に
は
、
11
代
目
市
川
団
十
郎
︵
11
代
目
市
川
海
老
蔵
の
祖
父
︶
、
杉
村
春
子
、
笠
置
シ
ズ
子
を
は
じ
め
、
交
流
が
あ
っ
た
多
く
の
芸
能
人
や
各
界
の
名
士
が
参
列
し
た
と
い
う
。
長
男
は
東
京
高
等
裁
判
所
長
官
を
務
め
、
ペ
ン
ネ
ー
ム
﹁
ゆ
た
か
は
じ
め
﹂
と
し
て
著
述
も
行
う
石
田
穣
一
。
人
物
[
編
集
]
父
・
精
一
が
劇
場
の
顧
問
を
し
て
い
た
た
め
、
子
供
の
頃
か
ら
学
校
帰
り
に
芝
居
小
屋
へ
も
ぐ
り
こ
み
芝
居
の
造
詣
を
深
め
た
こ
と
に
よ
り
、
芝
居
や
映
画
、
落
語
な
ど
を
こ
よ
な
く
愛
す
る
文
化
人
と
な
っ
た
。
外
務
省
嘱
託
と
し
て
の
ヨ
ー
ロ
ッ
パ
滞
在
期
間
中
に
も
映
画
や
オ
ペ
ラ
な
ど
ヨ
ー
ロ
ッ
パ
文
化
へ
の
造
詣
を
深
め
た
。
歌
舞
伎
、
新
劇
、
映
画
に
い
た
る
ま
で
芸
能
人
と
の
交
際
が
広
く
、
時
に
は
演
技
の
注
文
を
つ
け
た
り
し
て
い
た
。
特
に
7
代
目
松
本
幸
四
郎
と
は
親
交
を
重
ね
、
息
子
の
11
代
目
市
川
団
十
郎
を
連
れ
て
散
歩
も
し
た
と
い
う
。
京
都
地
方
裁
判
所
所
長
時
代
に
は
、
森
雅
之
、
京
マ
チ
子
主
演
の
映
画
﹁
瀧
の
白
糸
﹂
の
監
修
も
行
っ
て
い
る
。
自
身
も
落
語
を
演
じ
る
の
が
う
ま
か
っ
た
。
参考文献
[
編集
]
『
判例時報
』(
判例時報社
、1964年2月1日/11日/21日)「父・石田寿を語る(1)~(3)」石田穣一
脚注
[
編集
]
^
『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員10頁
^
『第五高等学校一覧(自昭和11年至昭和12年)』(第五高等学校、1936年)267頁
^
『東京帝国大学一覧(從大正8年至大正9年)』(東京帝国大学、1920年)學生生徒姓名16頁
^
a
b
c
d
e
『ふるさと人物記』(夕刊フクニチ新聞社、1956年)75頁
カテゴリ
:
日本の裁判官
内閣総理大臣秘書官
長崎原爆の被爆者
三菱グループの人物
東京大学出身の人物
旧制第五高等学校出身の人物
福岡県立修猷館高等学校出身の人物
福岡市出身の人物
広田弘毅
1895年生
1962年没