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神保・稲葉夫人︵じんぼう・いなばふじん、生年不詳 - 慶長8年︵1603年︶9月18日︶は、戦国時代の女性。織田信秀の娘。はじめ神保氏張に嫁ぎ、後に稲葉貞通の継室となった。
織田信秀の長女とされ[4]、この場合は織田信長の姉となる。﹃大日本史料﹄では、信長の妹としている。
最初、︵領国を追放されて︶京都にいた神保氏張に嫁いでいるが、これは信秀か信長の命令によるものかなど、結婚の経緯は定かではない[6]。天正3年︵1575年︶に氏張との間に息子の氏長が生まれている[6]。天正6年︵1578年︶4月、信長は氏張に越中平定のために帰国を命じて、飛騨の姉小路頼綱、北陸を指揮した柴田勝家に協力するように命じている[6]。しかし結局、これに失敗しており、離別を命じられた。
﹃高岡市史﹄では、信長が氏張に妹を嫁がせたのを天正9年︵1581年︶としている。
信長の死後、豊臣秀吉は、美濃国の稲葉貞通にこの後家を嫁がせた[6]。貞通の正室は斎藤道三の娘であったが、この頃には死別していたため、秀吉が継室として嫁がせたという[6]。貞通との間には男子が3人、女子が2人生まれている︵貞通の嫡子・典通は前正室の斎藤道三娘との間の息子︶[6]。この内の1人は江戸幕府の旗本となった[6]。
貞通との間に、以下の子を儲けた。
●稲葉忠次郎秀方
●稲葉通孝
●稲葉大学某
●女子 - 織田三吉信秀の室
●女子 - 柴田勝豊の妻
慶長8年︵1603年︶9月18日、死去。繁渓永昌大姉と号した。
墓所は、﹁稲葉家墓﹂︵清水村長良月桂院︶。ただし、﹁繁渓永昌大姉﹂の後に﹁天正8年︵1580年︶9月15日﹂の銘が続く︵慶長8年の誤りか︶。﹃大日本史料﹄では、葬地は不明とする。
生年について[編集]
系図では信長の姉とされているが[要出典]、信長が天文3年︵1534年︶生まれであるから、信長より年長ならば最初の氏張の息子でさえ42歳以上と当時としてはかなりの高齢出産をしており、さらに貞通に嫁いで5人も生んだのが50歳代となり、当時としては子供を産む年齢としては考えにくく、信長の妹とする説が有力である[6]。
﹃寛政重修諸家譜﹄では、お市の方の次に記されている。