稲田植次
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稲田 植次︵いなだ たねつぐ、慶長5年︵1600年︶ - 慶安5年3月23日︵1652年5月1日︶︶は、徳島藩筆頭家老。淡路洲本城代稲田家3代当主。
正室は賀島政慶の娘。子に稲田植栄、稲田植幹。幼名は梶之助。通称は九郎兵衛。
生涯[編集]
慶長5年︵1600年︶、蜂須賀家家老稲田示植の子として生まれる。慶長19年︵1614年︶、出仕して蜂須賀至鎮に仕えた。慶長19年︵1614年︶、慶長20年︵1615年︶の大坂の陣に祖父・植元、父・示植の3代で出陣した。本町橋で陣所が夜襲を受けた際の働きで、大御所徳川家康、将軍秀忠より感状を受ける。正保3年︵1646年︶、父の隠居により家督相続する。1万4197石と大名並の知行を給され、洲本城代を務めた。慶安5年︵1652年︶3月23日死去。享年53。 大坂の陣での武功を立てたときの話をせがまれると﹁15歳のときのことで忘れてしまった﹂と答え、賜った感状のことを尋ねられても﹁大事にしまっており、二度と見たことがないので忘れた﹂と武功について語ろうとしなかった逸話が﹃常山紀談﹄[1]に記されている。参考文献[編集]
- 藤井喬『阿波人物誌』
脚注[編集]
- ^ 湯浅常山『常山紀談 : 通俗插画』和陽館、1887年、355頁 。 『稲田九郎兵衛 武功を語らざりし事』