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「竹青」(ちくせい)は、太宰治の短編小説。雑誌掲載時のタイトルは「竹青―新曲聊斎志異―」だった。
初出
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『文藝』1945年4月号
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単行本
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『薄明』(新紀元社、1946年11月20日)[注 1]
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執筆時期
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1945年2月20日頃~3月5日(推定)[注 2]
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原稿用紙
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30枚
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本作品の末尾に﹁自註。これは、創作である。支那のひとたちに読んでもらひたくて書いた。漢訳せられる筈である﹂とある。太宰自身が書き記していた﹁創作年表﹂の﹁昭和二十年﹂﹁正月号﹂の項に、﹁小説︵漢文/竹青︶大東亜文学30﹂とあるため、1945年1月、中国語訳版﹁竹青﹂が﹃大東亜文学﹄︵電報通信社︶に発表されたと考えられていた。掲載誌が発見されてないため、翻訳はされなかったのではないかという説も強い[1][3][注 3]。
太宰が本作品を書くときに拠った本は、﹃聊斎志異﹄︵北隆堂書店、1929年11月10日、田中貢太郎訳・公田連太郎註︶である[1]。
あらすじ[編集]
むかし湖南に魚容という名の貧書生がいた。氏も育ちも共に賤しくなく、ひたすら古書に親しみ、とくに道にはずれた振舞いもなかった人であるが、運には恵まれなかった。早く父母に死別し親戚の家を転々とし、ひとりの酒くらいの伯父から無学の下卑を押しつけられ、その女と結婚した。女は酒くらいの伯父の妾であったという噂もあり、顔も醜いが、心もあまり結構でなかった。魚容の学問を頭から軽蔑していた。
魚容はある日﹁おれもそろそろ三十。ここは一奮発して大いなる声名を得なければならぬ﹂と決意して、女房を殴って家を飛び出し、郷試︵きょうし︶に応じたが見事に落第。とぼとぼと故郷に帰る途中、洞庭湖畔の呉王廟の廊下に這い上がって寝ころんだ。
﹁からすには、貧富が無くて、仕合せだなあ﹂と小声で言って目を閉じうとうとすると、黒衣の男にゆり起こされた。男は﹁呉王さまのお言いつけだ。そんなに人の世がいやになって、からすの生涯がうらやましかったら、ちょうどよい﹂と言って、ふわりと薄い黒衣を魚容にかぶせた。たちまち魚容は雄の烏となり、竹青という名の雌の烏と出会う。
(一)^ ﹃薄明﹄は随筆が中心の作品集。収録作品は以下のとおり。﹁小さいアルバム﹂﹁鉄面皮﹂﹁東京だより﹂﹁雪の夜の話﹂﹁竹青﹂﹁薄明﹂﹁男女川と羽左衛門﹂﹁弱者の糧﹂﹁容貌﹂﹁六月十九日﹂﹁食通﹂﹁五所川原﹂﹁青森﹂﹁校長三代﹂﹁或る忠告﹂﹁炎天汗談﹂﹁横綱﹂﹁革財布﹂﹁天狗﹂。
(二)^ ﹁竹青﹂を書き上げた3月5日、6日頃から太宰は﹃お伽草紙﹄を書き始めている[1][2]。
(三)^ ﹁竹青﹂は40数年の後中国語に翻訳された。1991年2月発行の﹁上越教育大学国語研究﹂第4号に﹁竹青―新曲聊斎志異―﹂というタイトルで掲載された。翻訳は趙小鳳。
(一)^ abc﹃太宰治全集 第7巻﹄筑摩書房、1990年6月27日、448-449頁。解題︵山内祥史︶より。
(二)^ ﹃太宰治全集 第7巻﹄筑摩書房、1990年6月27日、453-455頁。解題︵山内祥史︶より。
(三)^ ﹃太宰治全集6﹄ちくま文庫、1989年2月28日、450頁。解題︵関井光男︶より。
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