著作道書き上げ
﹃著作道書き上げ﹄︵ちょさくどうかきあげ︶は明治5年︵1872年︶、仮名垣魯文と条野有人︵採菊︶の連名で教務省に出された上申書。
このころ、明治政府の教務省は﹁三条の教憲﹂にもとづき、宗教・芸能・文芸を民衆の教化に役立てようとした。この方針のもと諸芸能の組織化が模索され、戯作者である仮名垣、条野も、政府の調査に応じ、﹁其他両三名のみ︵本文︶﹂の四~五名で組合に類するものを結成しようとしたらしい。﹃著作道書き上げ﹄はその折に政府に提出した上申書で東京日日新聞にも掲載された。﹃著作道書き上げ﹄の本文は、前半3分の2ほどで戯作の歴史を述べたのち、﹁教則三条のご趣旨にもとづき著作つかまつるべし﹂と政府の方針に従うことを上申している。