費穆 (映画監督)
表示
費穆 | |
---|---|
繁体字 | 費穆 |
簡体字 | 费穆 |
漢語拼音 | Fèi Mù |
生誕 |
1906年10月10日 清 上海 |
死没 |
1951年1月31日(44歳没) イギリス領香港 |
職業 | 映画監督、映画プロデューサー、舞台演出家 |
子供 | 費明儀 |
兄弟姉妹 | 費彝民 |
祖籍 | 江蘇省呉県 |
費 穆︵フェイ・ムー、ひぼく、1906年10月10日 - 1951年1月31日[1]︶は、中国上海出身の映画監督[1]。字は敬廬[1]。
﹃田舎町の春﹄ポスター
経歴[編集]
1906年に上海に生まれ、1916年に北京に移った[2]。法文高等学堂で様々な外国語を学ぶ[2]。この時期に左目を失明している[2]。後、鉱山事務所の会計として働く傍ら、映画評論を始め、朱石麟とともに映画雑誌﹁好莱塢﹂を創刊する[2]。1930年に天津の華北電影[3]に入社し英文字幕の翻訳を担当する[1]。1931年、侯曜監督の﹃故宮新怨﹄の撮影に参加し、助監督としての活動を開始する[4]。1932年には上海の聯華影業に入社。都市の貧富の対立を描いた﹃城市之夜﹄で監督デビューを果たす[2]。1936年、抗日運動のため、欧陽予倩・蔡楚生と上海電影界救国会を結成、国防映画﹃狼山喋血記﹄を監督する[2]。日中戦争が始まり、﹁孤島﹂と化した上海で民華影業公司を設立、﹃孔夫子﹄などの作品を監督したが、太平洋戦争が始まり租界が占領されると日本軍への協力を拒否し、舞台の演出に転向する[2][1]。戦後に映画界に復帰[2]、1946年に国民党が中華電影の施設を接収して設立した撮影所、上海実験電影工場の所長となる[5]。1948年には梅蘭芳の舞台を撮影した中国初のカラー映画﹃生死恨﹄を監督[6][7]。同じ年、﹃田舎町の春﹄︵小城之春︶を監督する。この映画は費の代表作とされており、2005年には、中国映画誕生100周年を記念して選ばれた香港電影金像奨の中国映画歴代ベスト100で第一位に選出された[8][9]。1949年、香港に移住し、龍馬影片を創業、﹃江湖児女﹄の製作を開始するが、完成しないまま1951年に心臓病で死去した[2][10]。フィルモグラフィー[編集]
監督[編集]
●城市之夜 (1933年) ●人生 (1934年) ●香雪海 (1934年) ●天倫 (1935年) ●狼山喋血記 (1936年) ●聯華交響曲 (1937年) ※オムニバス ●鍍金的城 (1937年) ●北戦場精忠録 (1937年) ●孔夫子 (1940年) ●洪宣嬌 (1940年) ●古中国之歌 (1940年) ●小放牛 (1947年) ●生死恨 (1948年) ●﹃田舎町の春﹄小城之春 (1948年)脚本のみ[編集]
●前台與後台 (1937年) ●斬経堂 (1937年) ●世界児女 (1941年)家族[編集]
長女はソプラノ歌手の費明儀、弟は大公報の社長を務めた費彝民である[11]。脚注[編集]
(一)^ abcde费穆 アーカイブ 2021年6月26日 - ウェイバックマシン 中央戏剧学院 2018年7月9日閲覧。
(二)^ abcdefghi费穆 アーカイブ 2018年4月18日 - ウェイバックマシン 上海市地方志办公室 2018年7月9日閲覧。
(三)^ 日中戦争期の同名の映画会社とは別
(四)^ 费穆 アーカイブ 2018年4月18日 - ウェイバックマシン 中文电影百科 2018年7月9日閲覧。
(五)^ 上海电影志 官办机构 アーカイブ 2016年4月3日 - ウェイバックマシン 上海市地方志办公室 2018年7月9日閲覧。
(六)^ 戏曲电影 アーカイブ 2018年4月18日 - ウェイバックマシン 电影学院 2018年7月9日閲覧。
(七)^ 梅兰芳︽生死恨︾系中国第一部彩色电影 アーカイブ 2018年4月18日 - ウェイバックマシン 中国新闻网 2018年7月9日閲覧。
(八)^ ︽小城之春︾中國百年最佳電影 アーカイブ 2018年4月18日 - ウェイバックマシン 蘋果日報 2018年7月9日閲覧。
(九)^ 香港映画賞が中国映画歴代ベスト100を発表 アーカイブ 2018年4月18日 - ウェイバックマシン allcinema 2018年7月9日閲覧。
(十)^ 江湖兒女 アーカイブ 2018年4月18日 - ウェイバックマシン 香港電影資料館 2018年7月9日閲覧。
(11)^ 西洋歌劇方法唱中國傳統歌先鋒名歌唱家費明儀辭世 アーカイブ 2018年4月19日 - ウェイバックマシン 蘋果日報 2018年7月9日閲覧。