郝懿行
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郝 懿行︵かく いこう、1757年 - 1825年︶は、中国清代の儒臣・学者・随筆家。字は恂九、蘭皋と号する。
生涯[編集]
山東省登州府棲霞県の出身。幼少の時からぼんやりしていたため﹁模糊﹂と呼ばれるほどだった。乾隆51年︵1786年︶に国子監に入学し、嘉慶4年︵1799年︶にようやく科挙に及第し、進士となる。最初は戸部主事に任命され、朴訥で口数は少なく俸給はほとんど書物を買うのに使い、深夜まで執筆するという生活を続けた。王照圓︵字は婉佺、山東省登州府福山県の出身︶を妻とし、この人も経史に詳しかったので、当時﹁交郵の王父子︵王念孫・王引之︶、棲霞の郝夫婦﹂とその学問を並び称される。嘉慶25年︵1820年︶に江南司主事に任命され、道光帝のときに在職中に没する。享年69。その死後、家は相変わらず貧しく、﹁夫人は原籍に帰らんと欲して能わず、京邸︵北京の自宅︶に羈留し、依る所を知らず﹂という。著作[編集]
﹃郝氏遺書﹄に著作はまとめられている。名物訓詁の学に優れ、中でも﹃爾雅義疏﹄19巻にもっとも心血を注いだ。その他の著述として、 ●﹃易説﹄12巻 ●﹃書説﹄2巻 ●﹃鄭氏礼記箋﹄ ●﹃春秋説略﹄12巻 ●﹃春秋比﹄ ●﹃山海経箋疏﹄18巻 ●﹃竹書紀年校正﹄14巻 ●﹃晋宋書故﹄ ●﹃荀子補注﹄ ●﹃記海錯﹄ ●﹃燕子春秋﹄ ●﹃蜂衙小説﹄ ●﹃補晋書刑法志﹄ ●﹃食貨志﹄ ●﹃曬書堂詩鈔﹄2巻 ●﹃曬書堂文集﹄12巻 などがある。随筆を集めた﹃曬書堂筆録﹄は、周作人の愛読書であり﹁文章は達意で好ましく、この人の文章学識ともに欽慕するところ﹂と絶賛している。さらに﹃爾雅﹄の註について、﹁その精審さにおいて邢昺・邵晋涵を凌いでいる﹂とも評した[1]。 なお、邦訳としては松枝茂夫・訳﹃模糊集﹄︵生活社、日本叢書16、昭和20年︶があり、同氏の抄訳が歴代随筆集[2]に納められている。参考文献[編集]
- 『清史稿』巻482「郝懿行伝」
- 『清史列伝』巻69
- 『国朝耆献類徴』巻148
- 『続碑伝集』巻72
- 『国朝先正事略』巻75
- 『国朝漢学師承記』巻6
- 牟庭『郝懿行墓誌銘』
- 周作人『苦竹雑記』(1935年)