金城芳子
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きんじょう よしこ 金城 芳子 | |
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1921年(大正10年) | |
生誕 |
知念 芳子 1902年3月28日 沖縄県那覇区辻町 |
死没 |
1991年12月3日(89歳没) 東京都新宿区 |
死因 | 心不全 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 沖縄県立第一高等女学校 |
著名な実績 | 里親・里子制度などの福祉活動、「沖縄ふるさとの家」主催による沖縄からの上京者の支援 |
影響を受けたもの | 伊波普猷 |
配偶者 | 金城朝永 |
金城 芳子︵きんじょう よしこ、1902年︿明治25年﹀3月28日[1][2] - 1991年︿平成3年﹀12月3日[2][3]︶は、日本の福祉活動家[1]、社会事業家[4]。夫は沖縄研究者の金城朝永。長年にわたって福祉の道に挺身し[5]、現役を引退後も東京の自宅で﹁ふるさとの家﹂を主宰し、沖縄から上京してくる若者たちの支援に努めた[1][5]。
1927年︵昭和2年︶。左端より金城芳子、金城朝永、伊波普猷。
沖縄県那覇区辻町で誕生した[5]。旧姓は知念[6]。早くに父が死去したため、母より家の跡取りとして、男に劣らない学問をさせるべく育て上げられた[5]。尋常小学校時代により、伊波普猷らによる﹁那覇子供会﹂に参加しており、沖縄県立第一高等女学校へ進学後も沖縄組合教会に出入りした。第一高女を卒業後も、伊波の講演会に同行するなどして、強い影響を受けた[5][7]。
1922年︵大正11年︶に上京[1]。関東大震災で被災したために一時は帰郷するも、1924年︵大正13年︶に再上京して、金城朝永と結婚した[5]。失業救済事業で東京の託児所に勤めたことがきっかけで[5]、1928年︵昭和13年︶に東京市養育院の保母長となり、里親・里子問題に取り組んだ[1]。その後も1928年︵昭和3年︶に東京都中央児童相談所技師[1]、1948年︵昭和23年︶に東京都の児童相談所勤務と[8]、30年近くにわたって福祉の道を歩み続けた[5]。特に1948年からの児童相談所時代は、児童福祉法施行により相談所が開設されてからのもので、里親制度のもとに千組もの里親を手がけ、﹁里親制度の草分け﹂として、日本全国の関係者から高い評価を受けた[8]。
1980年︵昭和55年︶に退職後[6]、沖縄県からの委嘱を受け[5]、東京の自宅を開放して[2]、﹁沖縄ふるさとの家﹂を主宰し、学業や就職で上京してくる沖縄の若者たちの育成に努めた[1][5]。
福祉事業の傍らで、1947年︵昭和26年︶に発足した沖縄文化協会を、陰ながら支えた[5][7]。沖縄文化を研究していた夫の朝永と1955年︵昭和30年︶に死別した後も、沖縄関係者の会合には必ず参加し、﹁朝永の夫です﹂と挨拶して、朝永を忘れさせないことを心がけていた[5]。
晩年は頻繁に帰郷し、ひめゆり同窓会の平和記念資料館作りの支援[9]、講演など、自由に生活していた[5]。作家の新垣美登子、医師の千原繁子、作家の新島正子といった同郷の女性たちと交流も楽しみ、特に新垣美登子とは親交があった[9]。
1991年︵平成3年︶12月、東京都新宿区の病院で、心不全により89歳で死去した[3]。没後、沖縄女性の地位の向上を願っていた遺志に基づいて、遺産が沖縄協会に寄付され、それをもとに﹁金城芳子基金﹂が創設され[7][10]、沖縄女性の地位向上のための研究、調査、活動に対しての助成が行われ続けている[11]。
経歴[編集]
著作[編集]
●﹃なはをんな一代記﹄沖縄タイムス社︿タイムス選書﹀、1978年1月。 NCID BN05868069。 ●﹃相思樹の花影 おきなわ女の群像﹄沖縄文化協会、1985年1月。 NCID BN06409817。 ●三木健編 編﹃沖繩を語る 金城芳子対談集﹄ニライ社、1988年9月15日。 NCID BN02797893。 ●﹃おもひがなし 金城芳子歌日記﹄ニライ社、1990年8月。 NCID BN06079235。 ●﹃惜春譜﹄ニライ社、1991年10月。 NCID BN07005493。脚注[編集]
(一)^ abcdefg日外アソシエーツ 2004, p. 2451
(二)^ abc琉球新報社 1998, p. 140
(三)^ ab﹁金城 芳子さん︵福祉活動家︶死去﹂﹃読売新聞﹄読売新聞社、1991年12月4日、東京夕刊、19面。
(四)^ ﹃日本人名大辞典﹄上田正昭他監修、講談社、2001年12月6日、659頁。ISBN 978-4-06-210800-3。2022年3月5日閲覧。
(五)^ abcdefghijklm沖縄県 1996, pp. 90–91
(六)^ ab三木 1988, p. 247
(七)^ abc由井 2003, p. 29
(八)^ ab琉球新報社 1996, pp. 128–129
(九)^ ab琉球新報社 1996, pp. 130–131
(十)^ 由井 2003, p. 27
(11)^ 琉球新報社 1996, p. 125