高野百里
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高野 百里︵たかの ひゃくり、寛文6年10月12日︵1666年11月8日︶ - 享保12年5月12日︵1727年6月30日︶︶は、江戸時代前期の俳人。諱は勝春、字は文館、通称は市︵郎︶兵衛。別号に茅風邪、雷堂。漢詩人高野蘭亭の父。
江戸日本橋で魚問屋を経営する傍ら、服部嵐雪の雪門派で俳諧を行った。
生涯[編集]
寛文6年︵1666年︶10月12日、江戸小田原町︵日本橋室町一丁目と日本橋本町一丁目の間︶の魚問屋小鍛治長次郎高野勝昌の子に生まれた[1]。 延宝5年︵1677年︶頃、同じ小田原町の魚問屋杉山杉風と親しくして俳諧を始め、松尾芭蕉に師事し、天和3年︵1683年︶蕉門十哲服部嵐雪に入門した[1]。当初は茅風と号したが、貞享3年︵1686年︶、嵐雪の命で百里と改号した[1]。元禄2年︵1689年︶に刊行された草壁挙白編﹃四季千句﹄に初入句した[1]。宝永4年︵1707年︶嵐雪が死去すると、その追善活動を主導した。 宝永末年、不知火を見に九州へ旅行した[2]。 名声が高まると共に、入門志望者も多く出たが、交友を嫌い門弟を取らず、交友を持ったのは白雲、柳川琴風等2,3名のみだった[1]。 享保12年︵1727年︶5月12日病没した[1]。死に臨み、医師原芸庵を呼んで、辞世に﹁しんでおいてすゞしき月をみるもよし﹂と詠もうとしたが、芸庵が騒がしいので書き損じたとして、﹁みるぞかし﹂と改めた[1]。墓所は本所東江寺[1]︵現在は葛飾区東金町︶。編著[編集]
- 『銭竜賦』 - 宝永2年(1705年)刊、『日本俳書大系』第3巻蕉門俳諧後集、『俳諧文庫』第7編嵐雪全集収録
- 『風の上』 - 宝永4年(1707年)刊
- 『続誰が家』 - 宝永7年(1710年)?刊
- 『遠のく』 - 宝永5年(1708年)刊、嵐雪一周忌
- 『嵐雪十三回忌集(散紅葉)』 - 享保4年(1719年)刊、『未刊俳諧追善集と研究』第2期第13冊収録
- 『嵐雪十七回忌集』 - 享保8年(1723年)自序
- 『普白追善集』 - 享保11年(1726年)刊
- 『ふるふすま』 - 享保11年(1726年)跋、芭蕉三十三回忌
- 『さるすへり』 - 享保頃刊