日本大百科全書(ニッポニカ) 「そろばん」の意味・わかりやすい解説
そろばん
形態
数の表示
五玉は一つが5を、一玉は一つが1を表す。したがって一つの桁で普通9までの数が表示できる。桁数は21、23、25、27が普通で、ある桁を一位とすると、その左の桁は順に十、百、千、……と大きな数を、逆に右の桁は順に分(ぶ)、厘(りん)、毛(もう)、……と小さな数を表すことができるから、電卓以上に大数、小数を表示することができる。五玉が一つ、一玉が五つのものは1桁に10までを、五玉が二つ、一玉が五つのものは15までの数が置けることになる。さらに五玉二つのうちの上の五玉を半分降ろし、下の五玉を完全に降ろした状態では15となるから、最高20まで置けることになる。この置き方を懸珠(けんしゅ)とよんでいる。
[鈴木久男]
沿革
伝来
そろばんは計算法とともに貿易商人あるいは渡明(とみん)僧を通じて日本に伝えられたものであろうが、その時期は確定できない。しかし1592年ごろに中国で出版された李言恭(りげんきょう)らの『日本考(こう)』(もとの本は『日本風土記』で、1573年ごろまでの日本のことが記されている)に算盤のことが記録されており、1595年(文禄4)に天草(あまくさ)で出版された『ラテン・ポルトガル・日本語の対訳辞典』のなかにそろばんとローマ字で記されており、文禄(ぶんろく)の役のとき前田利家(としいえ)が名護屋(なごや)(佐賀県)の陣中で使った日本製の小型そろばん(中国式、9桁)が現存しており、さらに狩野吉信(かのうよしのぶ)が16世紀末ごろに描いた屏風(びょうぶ)図『職人尽絵(しょくにんづくしえ)』の縫取師(ぬいとりし)の絵のなかに両替屋が大そろばんをはじいているなどの資料の存在から、1570年代には中国から舶載されたと考えてよかろう。そろばんはジナともよばれていた。ルイス・フロイスの『日欧文化比較』(1585)やロドリゲスの『日本大文典』にJinaと記されている。
[鈴木久男]
発展
産地
古そろばんを産地別に分類すると、長崎、博多(はかた)、雲州(島根)、芸州(広島)、播州(ばんしゅう)(兵庫)、大坂、京都、大津などである。名古屋、北越、東京などは明治以降の製作である。
これを特徴づけて分類すると、(1)長崎、博多、播州のもの、(2)雲州と芸州のもの、(3)大津、京都のもの、の3系統になる。長崎・博多は明治以後も大型底高のものがつくられたが、他は明治前後を境として、珠は小さく、縦・横とも極端に小型化され、現代のそろばんに近づいた。産地間の先後関係は明らかにできないが、松江重頼(まつえしげより)の『毛吹草(けふきぐさ)』(1638)には肥前と摂津が名産地として紹介され、後の版に大津が加えられている。雲州には1645年(正保2)の文献が残っている。年代のはっきりしたものでは前田利家が陣中で使用したものがもっとも古く、五玉1個、一玉5個のものでは住友家蔵の1623年(元和9)のものが最古である。現在でも産地として播州(兵庫県小野)、雲州(島根県横田・亀嵩(かめだけ))は残っている。
[鈴木久男]
将来
第二次世界大戦以後、電動計算機に次いで電子計算機が、真空管の時代から、トランジスタ、IC、LSI、超LSIの時代へと進展し、そろばんより低価格の電卓の普及でそろばんの必要性は薄らいできた。しかし、計数観念の養成、精神の集中、加減算に便利という点からアメリカ、メキシコ、ブラジルなどの小学校教育の場に取り上げられている。教具として今後も大きな役割を果たしていくだろう。
[鈴木久男]
『鈴木久男著『ものがたり珠算史』(1979・寿海出版)』▽『戸谷清一著『日本珠算史』(1981・暁出版)』▽『竹内乙彦著『図説 そろばん』(1989・共立出版)』▽『下平和夫監修『江戸初期和算選書1~6』(1990~2001・研成社)』▽『和算研究所塵劫記委員会編、吉田光由著『現代語「塵劫記」』(2000・和算研究所)』