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「河北省」の意味・読み・例文・類語
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河北[省] (かほく)
Hé běi shěng
中国の北部,黄河下流の北に位置する省。南東部は平原で渤海湾に臨み,西と北とは山地に囲まれ,北西部にモンゴル高原の一部を含む。面積18万7700km,人口6668万︵2000︶。この中には中央直轄の北京・天津両市の面積・人口は数えられていない。11地級市,23県級市,109県,6自治県からなり,省都は石家荘市。西高東低の地勢で,高原と山地が全省の約3/5,平原が約2/5を占め,山東・河南・山西・遼寧の諸省,内モンゴル自治区と隣接している。中国最古の地理書︿禹貢﹀︵︽書経︾の中の一編︶では,九州のうち冀︵き︶・兗︵えん︶2州に属するが,大部分は冀州の地域だったので,今も冀省と呼ばれることがある。
自然
南東に開けた平たんな河北平原では,西に太行山脈,北に燕山山脈があるので,河流はだいたいに西から東への方向をとって渤海湾に注ぐ。この平原は黄河︵かつては本省の南部を通って渤海湾に注いでいたことがある︶,海河,灤河︵らんが︶などによってつくられた沖積地で,大部分は標高50m以下である。しかし,山麓地帯には黄土の堆積でできた扇状地がつらなっていて,北京をはじめ邯鄲︵かんたん︶,石家荘,保定などの重要な都市がその線に位置している。海河とはもともと多くの支流を合わせ天津付近で海に入る部分の名称であったが,今日では全体の名称となっているので,河北平原はほとんどがその流域に属するといってよい。海河は南運河,子牙河,大清河,永定河,北運河の五大支流のほか,300余の小支流をもっている。それらは北は燕山山脈,南は太行山脈から流出し,黄土高原を通過するので大量の泥砂を含み,降雨の集中する夏秋にはたびたびはんらんを起こした。永定河はその代表であるが,今日では中流に官庁ダムが作られたため,洪水の脅威が除かれた。灤河は海河とは別系統をなし,北部山地から発して本省の北東部を貫流し,直接渤海湾に注いでいる。
本省の西につらなる太行山脈は山西省との境界をなし,標高1500~2000m。山西高原の東縁を形成しており,そこに河北平原から山西に通ずる八つの峠道があって,古くから太行八陘の名で知られている。最高峰は北端に位置する小五台山で,標高2870m。北部の山地はモンゴル高原から河北平原に至る漸移地帯をなし,その南西縁が燕山山脈である。万里の長城はこの山脈中にあって,山海関を起点として北西にのび,沿線に開かれた喜峰口,古北口などはモンゴル高原に通ずる要地となっている。北西部の張家口北方にひろがる張北高原はモンゴル高原の一部で,標高1200~1500m。内陸河と鹹水︵かんすい︶湖の散在する草原で,良好な自然の牧場である。
本省は渤海湾に面しているが,海面が狭小なため気候に与える影響は少なく,全体に大陸性で年間の気温差は30~40℃にも達する。北から南へ行くに従って,平均気温はもっとも寒冷な1月で-22℃から-3℃,もっとも暑熱の7月で17℃から28℃の開きがある。一年を通じて霜のないのは,北西の高原地区が4ヵ月未満なのを除き,他の大部分は5~7ヵ月,凍結期は2~4ヵ月である。年平均降水量は400~800mmであるが,その約70%が6~8月の夏期に集中し,太行山脈の北部と燕山山脈の南麓とはもっとも降水量が多く,年平均700mm以上にのぼる。これに対して春期は降水量がもっとも少なくて,一年中の10%程度に過ぎず,いわゆる春旱︵しゆんかん︶の現象を呈するのである。
歴史
本省では太行・燕山両山脈の山麓にきわめて古くから人類が住みついたことは,北京南西の周口店における北京原人の発見によっても明らかであるが,平原地帯は低湿なため開発が遅れた。春秋時代には燕・晋・衛・斉の諸国の領域で,中でももっとも強大な燕は本省の北部と遼寧省の西端を占め,その国都の薊︵けい︶は今日の北京に当たる。戦国時代になると燕の領土は中部から北部にわたり,南部は晋から分かれた魏と趙とに属したが,趙の都の邯鄲は,当時もっとも繁華な都市の一つとして知られた。秦は天下を統一すると上谷・漁陽・右北平・遼西・邯鄲・鉅鹿︵きよろく︶・東郡などの諸郡をおき,北の辺境に沿って万里の長城を築いた。当時の長城は今日の長城よりはるか北にあって,東から赤峰︵内モンゴル自治区︶・囲城・豊寧・赤城をつらねる線に遺跡がのこっている。漢代もこれを受けて長城線の内側に,西から上谷・漁陽・右北平・遼西の諸郡を,その南に涿︵たく︶・渤海・魏・鉅鹿・常山・清河の諸郡,広陽・趙・広平・真定・中山・信都・河間の諸国をおいた。このように行政区画が細分されたのは開発が十分に行きわたったからで,とくに太行山脈の東麓は重要な南北交通路に当たっていた。
三国,西晋をへて北方民族が侵入した五胡十六国時代になると,後趙︵羯︵けつ︶族,都は襄国︶,前燕︵鮮卑族,都は鄴︵ぎよう︶︶,後燕︵鮮卑族,都は中山︶などの諸国が本省内に都をおいた。北魏が華北を統一したのち東西に分裂すると東魏の領土となり,北斉に受けつがれた。隋をへて唐では河北道に所属したが,これが河北という名称の始まりである。唐の中期には中央に対して反乱を起こした安禄山,史思明の根拠地となった。唐末から五代にかけては北方の契丹民族が発展して遼国を立て,後晋の建国を援助した代償として本省の万里の長城以南の地を譲り受け︵山西省の大同を中心とした地域と合わせて燕雲十六州という︶,今の北京を南京︵のち燕京といった︶と称して副都とした。したがって,宋では本省の南半部を領有していたわけで,これを河北路といっていたが,やがて契丹の北方から女真族が起こって金国を立て,12世紀の初めには宋の勢力を完全に華北から駆逐した。金では今の北京に都を移して中都︵のち大都といった︶と名付け,本省の地域を中都路と称した。
元は中国を統一すると,金のあとを受けて都を今の北京において全中国の行政中心とし,本省の地域は大都路といって中書省の直轄とした。元の次の明では初め都は今の南京におかれたが,まもなく今の北京に移り,清に受けつがれて京師といわれた。本省の地域は明では北直隷として中央に直属し,清では直隷省となり,中華民国まで続いた。1927年に至り初めて河北省と改め,省都が保定におかれたのである。またそのとき北東部を熱河省に,北西部をチャハル︵察哈爾︶省に所属させたが,中華人民共和国の成立後,両省を撤廃したので今日の境域となった。省都は一時,天津におかれたこともあるが,今日では石家荘におかれている。
交通
本省は元代からきわめて短い期間を除いて,引き続き国都がおかれ全国の政治・軍事・文化の中心だったので,水陸交通は非常に発達していた。歴代にわたり駅路は北京を中心として全国各地に達し,大運河が省内東部を縦貫して,水路はみなこれに連絡していたのである。1860年︵咸豊10︶に天津が開港されてから,列強はここを帝国主義侵略の拠点として内地への進出を図った。石炭,鉄鉱,綿花などの豊富な資源を運び出し,大量の商品を運びこむため,清朝政府に対して鉄道建設利権の設定を強要したのである。したがって,19~20世紀にかけて北京・天津を中心として京奉︵今の京哈すなわち北京~ハルビン︶,京漢︵今の京広すなわち北京~広州︶,正太︵今の石太すなわち石家荘~太原︶,京張︵今の京包すなわち北京~包頭︵パオトー︶︶,津浦︵今の京滬︵けいこ︶すなわち北京~上海︶などの全国的な幹線がつぎつぎに敷設され,その他に豊沙︵豊台~沙城︶,京承︵北京~承徳︶,錦承︵錦州~承徳︶などの地方線も開通した。自動車道路の発達もいちじるしく,航空路も全国の幹線が集まっている。水運では海河の支流である子牙河,薊︵けい︶運河などに舟運を通じ,海運は不凍港としての秦皇島︵しんのうとう︶,天津の外港として新しく建設された天津新港︵天津市に所属︶を中心として隆盛である。
産業
農業では食料作物が全農作面積の80%を占め,平原地帯では小麦,トウモロコシ,コーリャン,アワ,いも類などを主とする。中では冬小麦が最大面積を占め,万里の長城以北の高原と山地では春小麦が作られる。トウモロコシは北東部の平原に集中し,コーリャンは河北平原の湿地帯,アワは桑乾河︵そうかんが︶,子牙河流域の乾燥地が適している。農作物中とくに重要なのは綿花で,石家荘以南の京広鉄道沿線一帯を主産地とし,産額は全国各省中第一である。その他の経済作物では麻,ラッカセイ,ゴマ,大豆,タバコなどがあり,果物では梨,ブドウ,桃,栗などが有名で,とくに栗は甘栗として日本人に親しまれ,東部の燕山山脈の南麓一帯に産する。牧畜としては張北高原に馬,牛,羊があり,張家口は家畜,毛皮の集散地である。渤海湾の魚介,白洋淀の淡水魚も大切な食料資源である。
軽工業としては紡績がもっとも盛んで,綿花産出の中心である石家荘を基地とし,邯鄲,保定にも工場が集中している。保定には中国最大のナイロン工場もある。地下資源では石炭,鉄鉱が豊富で,石炭は太行・燕山両山脈の山麓に広く分布しており,開灤,井陘︵せいけい︶,峰峰︵邯鄲の南西︶などの炭田が有名。鉄鉱は竜烟,承徳,唐山などが主要鉱区をなしている。これらの資源をもととして保定に変圧器製造,唐山,邯鄲に製鋼,トラクター製造などの重工業が起こった。唐山の陶磁器製造も有名である。渤海湾岸の塩も重要で,長蘆塩区の産額は全国でもっとも多い。北西部の高原には塩池が多く,そこからは天然ソーダもとれる。石油の埋蔵量の多いことも近年の調査で明らかになり,大港油田︵天津の南︶と華北大油田︵北京の南︶の二大油田が発見されて,将来が嘱望されている。また涿鹿︵たくろく︶県で華北第一といわれるリン鉄鉱が発見されたことも特筆すべく,リン酸肥料を大量に製造できるようになった。かつて石炭や鉄鉱などの重要資源は,外国資本や特定の中国官僚・買弁の手に独占され,列強の帝国主義侵略を強化するにすぎなかった。それから解放されたのは中華人民共和国の成立後のことで,資源地帯に工業基地をおくことによって,自主的な運営が積極的に進められるようになったのである。
執筆者‥日比野 丈夫
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