日本大百科全書(ニッポニカ) 「サウド家」の意味・わかりやすい解説
サウド家
さうどけ
Sa‘ūd
15世紀中葉、ペルシア湾岸のアル・ハサー地方から内陸部のネジド地方に移住・定着したアナザ人の一支族バニー・ウトーブの一族。この一族の祖先マニー・アル・ムライディから8代目の後裔(こうえい)サウドがこの王家の始祖。18世紀中葉、この始祖の長子ムハンマド︵1726―65、初代首長︶の時代に、サウド家は急激にその勢力を拡大し、一時その版図は北はアレッポ、南はアラビア海まで及んだ。その原動力となったものは、この首長と、当時コーランへの復帰によるイスラムの純化とピューリタン的な宗教戒律を主唱した神学者ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブ︵1703―92︶との、いわゆる﹁剣と宗教﹂の盟約であった。しかし1818年、この第一次サウド王国︵1740~1818︶の首都ダルイーヤは、その勢力の拡大を恐れたムハンマド・アリーのエジプト遠征軍の猛攻の前に崩壊した。
第二次サウド王国︵1818~1902︶は、トルキー︵在位1824~34︶の活躍で復興するが、半島中央のシャンマル人のラシード家との激しい抗争に加えて、王室内の絶え間ない骨肉の争いの結果、1892年、一族は首都リヤドを逃れて、クウェートの首長ムバラクのもとに身を寄せた。
1902年、アブドゥル・アジズ2世︵イブン・サウド︶は当時ラシード家の支配下のリヤドを奇襲により奪還し、第三次サウド王国︵1902~ ︶は再興の機運にのった。砂漠の豹(ひょう)と異名をとる同国王は、1913年アル・ハサー地方を統合、21年、宿敵ラシード家を滅ぼし、26年にはヒジャーズ地方からハーシム家のシャリーフ・フセインの勢力を駆逐して、32年、現在のサウジアラビア王国の基礎を築いた。1953年サウド国王が王位を継承したが、64年数多くの失政により王位を追われた。同年、英邁(えいまい)な王として著名なファイサル国王が王位につくが、75年、甥(おい)のファイサル・イブン・ムサエド王子の凶弾に倒れた。その後、ハリド国王を経て、82年ファハド国王、2005年アブドラ国王が王位についた。なお、現在、王族の総数は約5000~2万人といわれている。
﹇富塚俊夫﹈
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