デジタル大辞泉 「サンバルテルミーの虐殺」の意味・読み・例文・類語 サンバルテルミー‐の‐ぎゃくさつ【サンバルテルミーの虐殺】 ︽︿フランス﹀Saint-Barthélemy︾1572年8月24日︵聖バルテルミーの祝日︶の未明、パリに集まっていたユグノー︵新教徒︶が、カトリーヌ‐ド‐メディシスらによって虐殺された事件。3000人以上が殺され、虐殺は地方にも拡大し、ユグノー戦争は激化した。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
精選版 日本国語大辞典 「サンバルテルミーの虐殺」の意味・読み・例文・類語 サンバルテルミー‐の‐ぎゃくさつ【サンバルテルミーの虐殺】 (一)( サンバルテルミーはSaint-Barthélemy ) 一五七二年八月二四日サンバルテルミー︵聖バルトロマイ︶の祝日の前夜から当日にかけて、パリを中心に数千人以上の新教徒が虐殺された事件。旧教徒側のカトリーヌ・ド・メディシスとギーズ公らの陰謀によるもので、フランスの宗教戦争は、これを機会に深刻化していった。聖バーソロミューの虐殺。聖バルトロマイ祭日の虐殺。 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
日本大百科全書(ニッポニカ) 「サンバルテルミーの虐殺」の意味・わかりやすい解説 サン・バルテルミーの虐殺さんばるてるみーのぎゃくさつMassacre de la Saint-Barthélemy フランス語 フランスの宗教戦争期の1572年8月23日夜から24日︵サン・バルテルミーの祭日︶にかけて、パリで展開されたカトリック教徒によるユグノー︵新教徒︶の虐殺事件をいう。8月18日には両派の和合のシンボルとして、ユグノーのアンリ・ド・ナバル︵後のアンリ4世︶と国王シャルル9世の妹マルグリットとの結婚式が挙行されていた。しかし、国王の信頼を得て宮廷に勢力を拡大するユグノーのコリニー提督の存在におそれを抱き始めた王母カトリーヌ・ド・メディシスやギーズ家は、彼の暗殺を企図したが失敗に帰した︵8月22日︶ため、ユグノーの報復を恐れた宮廷側は、アンリの婚儀のためパリに集まっていたユグノーの一斉殺戮(さつりく)を断行した。こうしてパリでは3000人以上のユグノーが落命し、虐殺は地方にも拡大していった。ユグノーにとって青天の霹靂(へきれき)となったこの事件は、このあと暴君弑逆(しいぎゃく)説という抵抗権思想を生み出す引き金となった。虐殺を命令したシャルル9世は消耗の果てに1574年5月この世を去った。 ﹇志垣嘉夫﹈ 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例