日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
トルストイ(Lev Nikolaevich Tolstoy)
とるすとい
Лев Николаевич Толстой/Lev Nikolaevich Tolstoy
(1828―1910)
ロシアの文学者。8月28日︵新暦9月9日︶由緒(ゆいしょ)ある伯爵家の四男としてトゥーラ市近郊ヤースナヤ・ポリャーナに誕生。2歳で母を失い、9歳で父と死別。5歳のころ、長兄ニコライの話から、万人が幸福になる秘密の記された﹁緑の杖(つえ)﹂の探索や﹁蟻(あり)の兄弟﹂ごっこに熱中。これらはロシア現代史の起点となるデカブリスト貴族の乱︵1825︶に淵源(えんげん)する独創的な遊びであった。その痕跡(こんせき)は処女作﹃幼年時代﹄の﹁遊び﹂の章に初出し、その由来は﹃戦争と平和﹄のエピローグで、叔父(おじ)ピエールの革命思想に感動するアンドレイ・ボルコーンスキイの遺児ニコーレンカの描写に認められよう。これらの意義は最晩年の﹃想い出﹄にも強調され、生涯トルストイの体制批判と求道精神の原点となった。その一環として彼は死後の埋葬をも﹁緑の杖﹂ゆかりの森に指定した。
﹇法橋和彦﹈
文学の方法と特質
16歳、東方問題が時代の焦点であったのを受けて外交官を志望、後見人のもとからカザン大学アラブ・トルコ学科へ進むが、ルソーを愛読、哲学的思索に没頭して落第、翌年法学部に移り、新進の民法学者メイエルの感化を受け、自発的にモンテスキューの﹃法の精神﹄と照合してエカチェリーナ2世の﹃訓令﹄批判を書き残して﹁哲学と実践を統一﹂するため1847年4月に退学、兄妹5人で遺産を協議分割、ヤースナヤ・ポリャーナで地主生活に入る。所有農奴︵男性数330︶の生活改善運動に取り組みつつ、体育から医学に至る体系的な自習プランを超人的に実践するも3か月で挫折(ざせつ)、ここに至る間の生活心理は自伝的性格の作品﹃少年時代﹄︵1854︶、﹃青年時代﹄︵1857︶に続く﹃地主の朝﹄︵1856︶によく分析されている。以後22歳までの3年間を﹁非常に荒廃した生活のうちに送る﹂が、51年長兄ニコライとカフカスへ向かい、翌年現地で砲兵下士官として現役編入。ビバーク生活のなかで﹁夢想と現実を融合﹂する創作方法を確立、﹃幼年時代﹄︵1852︶を﹁頭でなく心で書くこと﹂に成功。自らを実験台として獲得した﹁魂の弁証法﹂、﹁村民の心に移り住むことのできる能力﹂と﹁清新な道徳的感情﹂︵チェルヌィシェフスキー︶は以後トルストイ文学の不変の特性となった。﹃襲撃﹄︵1853︶、﹃森林伐採﹄︵1855︶および戦記小説の金字塔たる三部作﹃セバストーポリ物語﹄︵1855~56︶は、カフカスにおける実戦参加やクリミア方面軍に志願転属して1855年の露土戦争に従軍、最激戦の第四稜堡(りょうほ)を死守した体験から書かれ、階級的な戦場心理の分析、死の刹那(せつな)における生の回帰的継続性、民族問題とジェノサイド、子供の目や自然保護からの戦争批判、戦争の正義・不正義の問題等々が総合的に考察された。またロシア外地たるカフカスへの旅やその地での生活は、のちに不滅の青春小説﹃コサック﹄︵1863︶に結実し、山岳民族出身の悲劇的英雄ハジ・ムラートに関する見聞は晩年に手がけられた同名の遺作として光彩を放っている。
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再度のヨーロッパ旅行
1855年11月、ロシア農奴制廃止の政治的引き金となったクリミア戦争から帰還して、ツルゲーネフをはじめ多数の文学者から歓迎されたが、首都の文学サロンになじめず、翌年には30年間のシベリア徒刑からモスクワへ帰ってきたデカブリスト老夫婦を主人公とする小説を構想。これが﹃戦争と平和﹄への端緒となる。57年、最初のヨーロッパ旅行で公開ギロチンを見物、恐怖の衝撃からパリを退散、帰途ルツェルンでの体験をもとに民衆芸術に酷薄な西欧ブルジョアジーの文化性を告発する短編に着手。58年アレクサンドル2世による農奴解放案を聞き、その欺瞞(ぎまん)性に激怒、﹁農民は土地なしで解放されない﹂と主張、同時に自らをデカブリストの革命的伝統にたつ貴族と規定、﹁下からの革命﹂を警告する手紙︵未発送︶を書く。59年には贅沢(ぜいたく)な有閑マダムの末期(まつご)の苦しみと老馭者(ぎょしゃ)のわびしい病死に重ねて、彼の墓標のために切り倒される1本の樹木の死を描き、三者の美醜を論じた短編﹃三つの死﹄を、また都会の社交文化における新婚生活の危機と田園の勤労生活における夫婦の友愛の成立を描く﹃家庭の幸福﹄を発表、60年には最初の教育論文﹃児童教育に関する覚書きと資料﹄、短編﹃牧歌﹄﹃チーホンとマラーニヤ﹄を脱稿して、6月教育事情視察のために二度目の外国旅行へ妹とたつ。南仏に長兄を見舞うも、9月20日肺結核で死去︵37歳︶。この兄の死の悲しみは、2年後の宮廷医ベルス家の次女ソーフィヤ18歳への結婚申込みとともに、後の﹃アンナ・カレーニナ﹄のレービンのプロットに詳しく描かれている。
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幾百万農民の世界観へ
1861年2月の農奴解放令布告に強い不信を抱きつつ、農地調停員として農民の利益を擁護、地主たちの反感を買い1年後に辞任。ツルゲーネフの偽善性を批判して決闘を申し込むほど神経過敏となる。8月、教育雑誌﹃ヤースナヤ・ポリャーナ﹄刊行︵予約読者少なく1863年1月休刊︶。62年9月23日、34歳を過ぎて結婚。翌年から88年︵60歳︶初孫誕生までの25年間に妻に9男4女︵うち夭折(ようせつ)4男1女︶を産ませる。63年ツルゲーネフの﹃父と子﹄におけるニヒリズム、チェルヌィシェフスキーの﹃なにをなすべきか﹄における女性解放思想を﹁嘲笑(ちょうしょう)する目的﹂で喜劇﹃毒された家庭﹄を書く。69年完結の﹃戦争と平和﹄のエピローグにも女性の社会的進出に対する論争的意図がうかがえる。
1870年代初頭よりピョートル大帝時代の小説を構想するが、現代との脈絡をみいだせず擱筆(かくひつ)、﹃アンナ・カレーニナ﹄の主題形成と並行して﹃ロシア語読本﹄の制作に精励、﹃鱶(ふか)﹄﹃飛びこめ﹄﹃カフカスのとりこ﹄など多くの起死回生の物語が、難産した﹃アンナ・カレーニナ﹄における死と生の二つのプロットの展開に活力を与えたと推察される。70年代末よりツルゲーネフとの友情を回復、﹃教義神学の批判﹄や﹃四福音書(ふくいんしょ)の編集翻訳﹄に着手、民話に注目、﹃懺悔(ざんげ)﹄によって特権的な貴族的生活を脱し﹁額に汗して営々と働く幾百万農民﹂の世界観に転機を求めた。84年には﹃わが信仰はいずれにありや﹄を脱稿、禁煙を始め、チェルトコフとともに民衆図書普及社﹁ポスレードニク﹂を創立。85年﹃ロシア思想﹄誌1月号は、82年のモスクワ国勢調査参加を資料とする﹃さらば我ら何をなすべきか﹄の掲載で発禁。ヘンリー・ジョージの﹃進歩と貧困﹄を読み、土地私有廃絶を決意、家産を憂慮する妻との不和つのる。87年には飲酒と肉食を断つ。80年代後半には創作民話﹃イワンのばか﹄をはじめ、実在した不幸な優駿(ゆうしゅん)の一代記﹃ホルストメール﹄、権威ある法官の刻々の死を裸にして描いた﹃イワン・イリイーチの死﹄、姦通(かんつう)問題を正面から取り上げた﹃クロイツェル・ソナタ﹄、資本主義的諸関係の浸透する農村の悲劇を描く戯曲﹃闇(やみ)の力﹄、さらには﹃人生論﹄を完成、﹃芸術とはなにか﹄に取り組むなど広範な領域での力作を生み出したが、91年これらの著作権を放棄する手紙を公表、妻との確執を決定的なものにした。その秋リャザン、サマラ諸県に凶作飢饉(ききん)が発生、現地で難民の救済のため不休の活動を続け、翌年4月には187か所、毎日9000人に給食、14万余ルーブルの資金カンパが寄せられた。11月下旬グロート教授の紹介で小西増太郎を知り、老子﹃道徳経﹄の共訳を始める。
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専制政治への批判
1890年代後半のトルストイは、専制政治は戦争を引き起こし、戦争は専制政治を支える、戦争と闘いたいと思う人々は、もっぱら専制政治と闘うべきであると主張した。﹃愛国主義か平和か﹄﹃キリスト教と愛国主義﹄﹃カルタゴは破壊されなければならぬ﹄﹃愛国主義と政府﹄といった反戦的社会時評が政府と教会に対して礫(つぶて)のように投げられた。99年には兵役拒否のドゥホボール教徒たちを海外へ移住させる資金を得るために最後の長編﹃復活﹄が完成した。政府は国際的な世論を恐れてトルストイの自由を奪えなかった。そのかわり宗務院が1901年1月に彼を破門した。以後トルストイは古いロシアの終焉(しゅうえん)を全身で感じながら、ニコライ2世やストルイピン首相にあて、暴力と死刑と私有の政治を痛烈に批判する手紙を出し続けた。10年10月28日未明、医師マコビツキーを伴い家出。31日夕刻、アスターポボで下車。11月7日午前6時5分永眠。彼の死は稲妻のようにロシアにおける革命的転換の始まりを告げたといわれる。
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日本への影響
二葉亭四迷と同学の森體による﹃戦争と平和﹄の一部戯訳︵1886︶に続いて、明治20年代初頭に始まるトルストイの移入と伝播(でんぱ)は近代日本の文学のみならず、社会運動や宗教活動にも深い影響の跡を残している。
森鴎外(おうがい)は処女作﹃舞姫﹄を発表するための跳躍台として、社会的不公正に憤激する若きトルストイの短編﹃リュツェルン﹄をレクラム文庫からとくに選び、﹃瑞西(スイーツル)館に歌を聴く﹄と題して訳出︵1889︶した。田山花袋(かたい)は﹃コサック﹄を英訳から︵1893︶、ロシアでトルストイと老子の﹃道徳経﹄を共訳して帰朝した小西増太郎は尾崎紅葉(こうよう)と組んで﹃クロイツェル・ソナタ﹄を原文から訳出︵1896︶した。小泉八雲(こいずみやくも)は東京帝国大学文科大学でいち早くトルストイの﹃復活﹄や﹃芸術論﹄を積極的に論じ、後任の夏目漱石(そうせき)も同じくトルストイの美学的見解に強い関心を示した。漱石は﹃英文学形式論﹄や理論的大著﹃文学論﹄のなかで、トルストイが芸術に下した定義を﹁大体において要領を得て居る﹂と述べている。﹃帝国文学﹄に優れたトルストイ論を発表︵1904︶した斎藤野の人(さいとうののひと)をはじめとする多くの逸材たちのトルストイへの注目もこの伝統に根ざしている。
トルストイ初期戦記小説の秀作﹃筒を枕(まくら)に﹄︵原題﹃森林伐採﹄︶の名訳︵1904︶を出した二葉亭四迷を得て、﹃復活﹄を新聞﹃日本﹄に218回にわたって訳載︵1905︶した内田魯庵(ろあん)は、この時代もっとも早くからトルストイの翻訳紹介に尽くした功労者である。魯庵訳﹃めをと﹄︵原題﹃家庭の幸福﹄︶を読んだ国木田独歩は自らの破婚の悲痛な体験と重ねて、そのこみ上げる感想を﹃婦人新報﹄に発表︵1897︶した。
独歩の友人でのちに社会主義者となる大阪天満(てんま)教会の牧師、百島操(ももしまみさお)もトルストイの宗教的民話の翻訳普及に尽くしている。植村正久、桑原謙三、丸山通一らキリスト者によるトルストイの宗教論と並んで、北村透谷(とうこく)の好評論﹃トルストイ伯﹄︵1892︶や、﹃破戒﹄執筆にあたって英書から﹃アンナ・カレーニナ﹄の構成を研究した島崎藤村(とうそん)、それと並んで若き日の河上肇(かわかみはじめ)がトルストイにひかれて﹃人生の意義﹄を翻訳したり、ト翁(おう)の社会主義観を論じた諸エッセイを書いている︵1905~06︶ことも注目に値しよう。
このころ、兄の蘇峰(そほう)︵1896︶に続いて徳冨蘆花(とくとみろか)がヤースナヤ・ポリャーナにトルストイを訪ね︵1906︶、数年後の大逆事件に臨んではトルストイの非暴力主義を体して、幸徳秋水(しゅうすい)らに対する強権的な処刑を批判する講演︵﹃謀叛(むほん)論﹄︶を第一高等学校で行い、秋水記念の庵(いおり)を建てて帰農した。蘆花が秋水を弁護した最大の理由は、1904年日露戦争勃発(ぼっぱつ)の危機に際して﹃ロンドン・タイムス﹄に発表されたトルストイの非戦論﹃考え直せ﹄を秋水が堺枯川(さかいこせん)と共訳で﹃平民新聞﹄に一挙掲載した英断と労苦への共鳴にあった。当時﹃平民新聞﹄の読者であった学習院生徒、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)はこれを読んで志賀直哉(なおや)と兵役義務の賛否について論じ合っている。こうしたトルストイの存在がその後、若い白樺(しらかば)派の同人たちの多様な創造的実践を促す一つの大きな要因となった。魯庵訳﹃イワンのばか﹄︵1906︶が社会主義入門の書とまで喧伝(けんでん)されたのもこの時代に属する。その影響は漱石の﹃吾輩(わがはい)は猫(ねこ)である﹄の馬鹿竹の話にも認められよう。
早くからトルストイに親炙(しんしゃ)していたユニテリアンの社会主義者、安部磯雄(あべいそお)は戦火を超えてトルストイと反戦の手紙を交わし合った。内村鑑三の無教会主義の実践と絶対反戦の信条もこの時代に直接トルストイから受け継がれたものである。
その内村をモデルの一人として登場させた有島武郎(たけお)の﹃或(あ)る女﹄が、﹃アンナ・カレーニナ﹄の悲劇を踏まえて、新しい女性の封建的な諸規制からの解放と経済的自立の志向を戦後の社会構造に密着して鋭く問題視しえたこととあわせて、木下尚江(なおえ)が戦中﹃火の柱﹄や﹃良人(りょうじん)の自白﹄において﹁天国を地上に経営する﹂人類の責務と反戦の思想を説いて広く世人の注目を集めるに至る下地にも、トルストイの主張と芸術的感化力がいかに大きく働いていたかが如実に知れよう。こうした時代を背景に、石川啄木(たくぼく)は大逆事件を機に社会主義文献を収集するかたわら、かつて﹃平民新聞﹄に訳載されたトルストイの非戦論を重病の床で筆写したのであった。
明治がトルストイの死と接して大逆事件で終わり、﹁冬の時代﹂を経て、いわゆる大正デモクラシー期に入ると、トルストイのほぼ完全な全集が春秋社から、また個人作家研究誌としては世界でも類をみない規模で﹃トルストイ研究﹄︵1916.9~19.1︶が刊行され、広津和郎(かずお)の﹃怒れるトルストイ﹄をはじめとする優れた評論を生んだ。
演劇界では島村抱月の手で松井須磨子(すまこ)主演の﹃復活﹄が帝劇の舞台に上り、﹃生ける屍(しかばね)﹄が続いて上演され、トルストイの名は民衆の底辺にまで浸透した。土木作業の現場で林芙美子(ふみこ)もカチューシャにあこがれて詩を書き始めた1人であり、﹃貧しき人々の群﹄で脚光を浴びた中条︵宮本︶百合子(ゆりこ)もトルストイの人道主義の理想に大きく影響されて成長した。蘆花に師事した前田河広一郎(まえだこうひろいちろう)たちを含めて、彼らの文学的出発からトルストイの存在を差し引くことはできない。同じころトルストイの作品に共鳴して弁護士を志し、生涯を労働者救援活動に捧(ささ)げた人に布施辰治(ふせたつじ)がいる。
1920年代後半を盛期とするプロレタリア文学運動のなかでは、レーニンやプレハーノフらによるトルストイ主義批判が文学理論の活用として重視されたが、運動に対する徹底的な弾圧のすえに1933年︵昭和8︶5月、中央大学での滝川幸辰(ゆきとき)の学術講演﹁﹃復活﹄にあらわれたるトルストイの刑罰思想﹂が国体の本義に敵対する発言として政・軍・官の指弾を浴び、これを口実に大学の自治と研究の自由は奪われるに至った。
この時期にトルストイの家出の真相をめぐって正宗(まさむね)白鳥と小林秀雄の間で闘わされた、いわゆる﹁思想と実生活﹂論争には、中国への侵略が拡大していく重苦しい時局へのいらだちが、言葉なき言葉として幾重にも屈折して内攻せざるをえないかの観を呈している。本多秋五による戦中の労作﹃戦争と平和﹄論が戦後日本のトルストイ観や研究にとって貴重な架橋となった。
﹇法橋和彦﹈
﹃原久一郎訳﹃トルストイ全集﹄全47巻︵1949~55・講談社︶﹄▽﹃中村白葉・融訳﹃トルストイ全集﹄全19巻︵1972~74・河出書房新社︶﹄▽﹃木村彰一他訳﹃トルストイ選集﹄全10巻︵1966~67・筑摩書房︶﹄▽﹃ビリューコフ著、原久一郎訳﹃大トルストイ﹄全三巻︵1968~69・勁草書房︶﹄▽﹃本多秋五著﹃トルストイ論﹄︵1960・河出書房新社︶﹄▽﹃ゼーガース著、伊東勉訳﹃トルストイとドストエフスキー﹄︵1966・未来社︶﹄▽﹃ヤンコ・ラヴリン著、杉浦忠夫訳﹃トルストイ﹄︵1972・理想社︶﹄▽﹃ソ連邦科学アカデミー編、小椋公人訳﹃トルストイ研究﹄︵1968・未来社︶﹄▽﹃法橋和彦編﹃トルストイ研究﹄︵1978・河出書房新社︶﹄▽﹃﹃文芸読本 トルストイ﹄︵1980・河出書房新社︶﹄▽﹃米川哲夫著﹃トルストイ﹄︵1980・国土社︶﹄▽﹃川端香男里著﹃トルストイ﹄︵1982・講談社︶﹄▽﹃法橋和彦監修﹃レフ・トルストイと現代﹄︵1985・ナウカ社︶﹄
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