デジタル大辞泉 「ハトラ」の意味・読み・例文・類語 ハトラ(Hatra) イラク北部にある都市遺跡。セレウコス朝時代の紀元前3世紀頃に建設され、パルティア王国の支配下において軍事要塞および隊商都市として発展。古代ローマ帝国によるたびたびの侵攻を退けたが、3世紀にササン朝ペルシアによって征服されて滅びた。半径約1キロメートルの二重の城壁に囲まれ、中心部にはメソポタミアの太陽神シャマシュなどを祭る神殿が残る。1985年に世界遺産︵文化遺産︶に登録。2015年、I(ア)S(イ)I(シ)S(ス)の破壊活動により危機遺産に登録された。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
改訂新版 世界大百科事典 「ハトラ」の意味・わかりやすい解説 ハトラHatra イラク北部,モースルの南西約100kmの荒野に残る,パルティア時代からササン朝初期︵1~3世紀︶の,ほぼ楕円形︵長径約2km︶の隊商都市遺跡。現在の呼称はハドルal-Ḥaḍr。都市は切石の城壁・稜堡で防備され,堀がめぐらされている。東西南北に城門があり,市内中央部には聖域︵465m×320m︶があって,太陽神シャマシュの神殿など多数のイーワーン式建築が切石で構築され,神像や肖像が安置されている。聖域外にも小神殿が多数あるが,これらの建築はローマに由来する技術も用いている。一方,神像や肖像は丸彫で大理石,石灰岩,アラバスター,青銅などで制作されている。住民はアラブ系であったが,支配層はイラン︵パルティア︶系で,アラム文字を用いていた。彫刻はグレコ・ロマン風の写実主義的なものであるが,パルティア彫刻の特色たる厳格な正面観描写,硬直した姿態,細部︵頭髪,ひげ,眼球,衣服などの文様︶を詳細克明に再現する︿真実主義﹀,線を重視する彫法を示す。とくに個性豊かな王侯肖像はパルティア系国王のフラバシfravaši︵永遠不滅の人格=霊魂︶を擬人化したもので,都市の守護神,人民の救済者像として礼拝された。ハトラは1~2世紀にはローマに敵対したが,アルサケス朝滅亡︵224︶後はローマと同盟して新興のササン朝と抗争したので,ローマ文化の影響も認められる︵ローマ産大理石の軍人彫刻︶。243年ころハトラはササン朝のシャープール1世によって攻略破壊された。 →パルティア美術 執筆者‥田辺 勝美 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
世界遺産詳解 「ハトラ」の解説 ハトラ 1985年に登録された世界遺産︵文化遺産︶で、イラク北部モスルの南南西約90kmに位置する古代都市遺跡。ハトラは紀元前3世紀頃から後3世紀まで、パルティア王国の自治領にあった重要な要塞都市で、ローマ帝国のたび重なる攻撃にさらされた。隊商都市として発展したが、ササン朝ペルシア︵224~651年︶に征服されて滅びた。円形城壁の四方には城門があり、二重の城壁の間には堀があった。町の中央の神殿地域には、アッラート女神や太陽神シャマシュの神殿などが残っている。人類の歴史上、重要な時代を例証するものとして世界遺産に登録された。◇英名はHatra 出典 講談社世界遺産詳解について 情報
百科事典マイペディア 「ハトラ」の意味・わかりやすい解説 ハトラ イラク北部,モースルの南西約100kmの地にあった古代都市。セレウコス朝時代から栄え,パルティア帝国治下では,初め商業都市,のちローマ軍に対する防衛都市として繁栄したが,243年ころササン朝によって破壊された。楕円形の2重城壁をもち,石造の神殿・宮殿跡から大量の神像,彫像が発見された。これらの遺跡は1985年世界文化遺産に登録された。 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハトラ」の意味・わかりやすい解説 ハトラHatra ドゥラとチグリス川の間にあった古代都市。現イラクのアルハドル。前1世紀頃パルティア帝国時代に円形の要塞都市として発展したが,240年頃ササン朝ペルシアのシャプール1世に征服され,廃虚と化した。現在イラク政府による発掘が行われている (→ハトラ遺跡 ) 。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報