改訂新版 世界大百科事典 「プロレタリア教育運動」の意味・わかりやすい解説
プロレタリア教育運動 (プロレタリアきょういくうんどう)
日本
日本でも第1次大戦後,経済的変動の影響を受けて待遇改善を要求する教員組合運動が各地に起こり,1919年に下中弥三郎を中心とする啓明会が成立してからは全国的な運動に広がった。これを導いたのはまだプロレタリア教育の思想ではなかったが,昭和初年の大恐慌後には教員組合運動が本格化する。まず29年10月,︿小学校教員連盟﹀が結成され︵この前身である教育文芸家協会は,1929年にエドキンテルンに加盟している︶,翌30年11月に非合法の︿日本教育労働者組合﹀へと発展し,さらに32年には日本共産党の指導下にあった日本労働組合全国協議会傘下の︿一般使用人組合教育労働部︵教労︶﹀となった。︿教労﹀は,教育労働者の生活改善の要求を掲げる一方で,迫りくる帝国主義戦争に抗して反戦平和の教育をおしすすめた。こうした教員組合の運動と表裏をなして,同じく30年の8月に合法的文化団体として設立された︿新興教育研究所﹀︵所長は山下徳治︶が,プロレタリア教育の理論化と普及に努めた。その機関誌︽新興教育︾もまた戦争反対の論陣をはり,軍国主義教育を批判し,さらにピオネール︵校外児童組織︶の結成を促すなど盛んなイデオロギー活動を行った。しかしこれらの運動に対する当局の弾圧は激しく,︿教労﹀のメンバーであることが発覚すれば治安維持法によって処分され,教員免許を奪われるほどであった。33年2月,長野県において多数の教員が検挙され︵長野県教員赤化事件。1933年4月までに65校,138人の教員が検挙される︶,この事件を契機に運動は衰退していった。第2次大戦後は,教育の制度・政策の民主化が行われ,国民大衆自身のための実践がすすめられたが,戦前の運動精神は民主主義教育研究会などの民間教育研究運動にひきつがれている。 執筆者‥海老原 治善出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報