教育(読み)キョウイク(英語表記)education

翻訳|education

デジタル大辞泉 「教育」の意味・読み・例文・類語

きょう‐いく〔ケウ‐〕【教育】

 
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精選版 日本国語大辞典 「教育」の意味・読み・例文・類語

きょう‐いくケウ‥【教育】

 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「教育」の意味・わかりやすい解説

教育
きょういく
education


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教育とは何か

二つの教育観

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教育の可能性と必要性



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教育目的論と教育目標論

実践としての教育は何を目ざしてなされるべきなのか、という議論は、「教育目的論」のなかで行われる。一般的に、教育目的論の課題は、教育を受けた結果完成される人間像を描くことである。その人間像は、理想的人間像のように理念として描かれる場合もあるが、それよりも実際的な、実現の可能性のあるレベルで描かれる場合もある。実現可能な場合の理論を、とくに「教育目標論」とよぶ。

 近代ドイツの教育学者ヘルバルトは、教育研究の歴史のうえで画期的な書物である『一般教育学』(1806)を書いているが、これには、「教育の目的から導かれた」というサブ・タイトルがつけられている。その「教育の目的」の規定を、ヘルバルトはまず、人々が子供の教育に携さわるときにどのような意図と願いを抱くのか、ということを考えることから始めている。人々は、子供の幸せや、社会に出てから役だつなどの現実的な目的を、「教育の目的」として思い描いてきたが、そうしたこの世での「任意の目的」のほかに、すべての人が無条件で従わなければならない「必然の目的」もあるはずで、こうした目的こそが、「一般教育学」を導いていく「教育の目的」である、とヘルバルトはみなした。それが「道徳的性格」という目的である。この概念の内容を、ヘルバルトは、経験界を飛び越えた思弁の世界で抽象的に語るのではなく、芸術的素養豊かな彼独自の美学に従い、かつ一般の人々が理解できる平易なことばで説き明かしていった。「道徳的性格」を、ひとりひとりの子供の頭のなかの思想界に、着実に実現していくための方法として、ヘルバルトは「教育学(ペダゴギーク)」という学問を組立てていったのである。

 ヘルバルトの教育目的論がそうであったように、教育の目的は、だれに対してもあてはまる目的として、一般的に述べられるのが普通である。教育の目的は、ひとりひとりの子供を、そこに到達させなければならないものというよりも、教育的な努力が、それに沿ってなされなければならないものである。つまり、教育の目的は、ゴールを示しているというよりも、ルールを示しているのであり、スポーツ競技のルールと同じように、だれに対しても等しくあてはまるものである。そのために、教育の目的は一般的なものであると同時に、公共的なものでもなければならない。日本の教育関係の法規のなかで、最上位に位置する「教育基本法」は、その第1条で、「教育は人格の完成をめざし……」と規定している。学校をはじめ、すべての教育事業は、この目的に沿って行われなければならないのである。

 それに対して、ひとりひとりの子供に実際に到達させることを目ざす目的が「教育目標」である。教育の目標は、ひとりひとりの子供の実態をよくみたうえで、その子供につけたい能力や資質を具体的に想定したもので、それが実際にどの程度達成されたかが、実践の適否を判断する基準にもなる。したがって、教育目標はできるだけわかりやすく、明確に記述されることが望ましい。たとえば、思考力や判断力のような目に見えない能力についても、目に見えるひとつひとつの行動の変化に翻案して教育目標を記述するようなやり方が、1950年代、1960年代のアメリカで提案されたこともある。それが「行動目標論」である。

 現代日本の学校教育では、この行動目標論をやや緩和して、各教科ごとに、学年別の到達目標をいくつかたて、それを基準にして児童・生徒の成績の評価を行っている。この評価法は「観点別評価」とよばれている。教育目標論は教育評価論と密接に連動している。

[宮寺晃夫]

人間と教育

教育の社会史

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古代・中世における教育研究



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近代教育の理念と展開


 近世ルネサンスの時代を迎え、形成されるべき人間像は鋳型のような画一的なものから解放されるようになる。教育研究も、単なる教え込みの技法の開発にとどまらず、形成されるべき人間像の描き直しを含めて、本格的に展開されていく。そのとき、まず批判されたのは、これまで子供たちに、カテキズムによる暗唱やラテン語の文法の暗記だけを強制してきた学校の教師たちであった。エラスムスやラブレーのようなルネサンスの代表的な人文主義者の著作では、学校の教師は、教会の権威者と同じように、しばしば戯画化されて描かれている。

 教会などの権威を背景に人間像を描くのではなく、人間をその本来の姿で描き出すためには、読み書きのような知的な能力に訴えるのではなく、身体や感覚の力のような、だれもがもって生まれる能力に焦点をあわせていくことが必要であった。16世紀には、言語verbumよりも実物resがもつ教育力に着目して、新たな人間像を描き出そうという実学主義(リアリズムrealism)の教授法の改革者が相次いで現れ、ヨーロッパの諸邦に人間形成の技法を説いて回るようになった。ラトケをはじめ、そうした教授学者たちの試みは、宗教上の対立や、国家間の利害の衝突で、長く平和な時代が遠のいていたヨーロッパに、国家を超えた新たな枠組みを築こうという壮大な願いに基づいていた。

[宮寺晃夫]

近世教育論の諸相

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近代教育の指導理念

近世以来、新たな時代に対応する人間像が描かれ、そのイメージを現実のものにするための教育の方法原理が示されてきたが、そうした教育研究が「学問」に仕立てあげられるようになるのは、19世紀になってからである。なかでも、いち早く国民教育制度の整備に取り組んだドイツでは、大学での専門分野として「教育学」(ペダゴーギク)を生みだしている。教育学の前史をたどれば、18世紀後半のドイツの大学で、主として哲学部に所属する研究者によって教育学の講義がなされていたことに始まる。そのなかに、ケーニヒスベルク大学のカントもいたが、ほかにも、ハレ大学のニーマイヤーAugust Hermann Niemeyer(1754―1828)らがいた。彼らの多くは、当時の哲学の主流であったカントとフィヒテの哲学にのっとりながら、個人の自由意思を認めることと、その個人の意思への介入作用とが、どのようにして両立することができるのかという難問に取り組みながら、「教育(エアチーウング)」、「教授(ウンターリヒツ)」などの教育学の主要な概念を定義していこうとしていた。

[宮寺晃夫]

ヘルバルトの教育論

そうした「講壇教育学者」とよばれる人々のなかで、最終的に教育学を自由意思の哲学から切りはなして、自立した学問に仕上げていったのはヘルバルトである。教育学は、子供の頭のなかの思想界を、どのように形成していくかという実際的な問題とかかわる学問であり、子供の側に自由意思があることを認めてしまえば、形成作用そのものが成りたたなくなってしまう。思弁的な議論をするのが教育学なのではなく、思想界がどのようなメカニズムで動いているのかを探ることこそが、教育学の課題である、とヘルバルトはみなした。その課題を、ヘルバルトは、独特の表象力学の理論を用いて果たそうとした。それは、子供が獲得する知識を表象(イメージ)に分解して、表象と表象との結合や反発の自己運動として、頭のなかの思想界を説明していくという理論である。この理論によると、意思のような力も、表象の結合の結果生まれてくる力である、ということになる。教授のような、直接的には知識の伝達を課題とする作用も、表象の結合のさせ方しだいで、意思の教育にもつながっていく。「教育していく教授」の理論、つまり教育的教授論がヘルバルトの教育学の核心にあった。

 ヘルバルト晩年の著作『教育学講義綱要』では、「教育学は、教育の目的を倫理学に依存し、教育の方法を心理学に依存する学問である」と規定されている。こうした二面的な性格づけは、教育学という学問を一種の応用科学にするとともに、国家などから特定の目的が教育にもちこまれることを許すことになった。19世紀中ごろから後半にかけてヘルバルトの後を継いだツィラーTuiskon Ziller(1817―1882)、ラインWilhelm Rein(1847―1929)たちは、「ヘルバルト派」とよばれる。彼らによって、教育学は教授技術のための学問としての性格をいっそう強めたばかりでなく、すべての教授が目ざさなければならない道徳的な目的が、郷土への愛情などというナショナリズムの教育目的と結びついていくようになっていった。ヘルバルト派の教育学は、日本にも明治後期に紹介され、それ以前に推進されていた開発主義の教授法にかわって、公教育の現場に大きな影響力を及ぼした。小学校の一時間一時間の授業は、「予備・提示・比較・総括・応用」の5段階をおって進められるようになり(五段階教授法)、公教育の定型化が促されていった。また、「修身」を首位の教科とする教科科目の編成に、裏づけが与えられていったのである。

[宮寺晃夫]

ディルタイの教育理念

19

 


デューイの教育思想

アメリカのプラグマティズムの哲学者として名高いJ・デューイも、社会主義や進化論などの新しい考え方がわきおこった19世紀後半の思想状況のなかで、さまざまな人々から豊富な刺激を受けながら自分の思想をつちかっていった。19世紀末には、シカゴ大学の付属小学校で児童に実験的な教育をこころみ、その成果を『学校と社会』(1899)で公表している。この本でデューイもまた、共同体、つまりコミュニティの崩壊を教育の問題としてとりあげている。数世代前の人々は、同じコミュニティのなかで生産と流通と消費をともに分かちあって生活してきたが、工場制度の浸透に伴って、生産は都市に集中し、流通も集約化され、子供たちにとって、自分たちの消費生活が何によって、まただれによって支えられているのかが実感できなくなってしまった。そうした社会認識の欠如を、デューイは、学校のなかに手作業をもちこむことによって、埋めあわせしようとしたのである。子供たちは、綿つみ仕事から服地の生産までの一連の手作業を課せられ、このプロセスで人類の知識・技術の歴史的な進歩のプロセスを学びとり、分業と協働の意義を実感し、さらに、目的をもって考えながら作業に集中していく習慣を身につけていく。これらの知識や資質は、産業社会に生きていくうえで欠かせない要素である、とデューイは考えたのである。デューイの教育思想は、「なすことによって学ぶ(learning by doing)」という標語によって語られることもあるが、この標語には、単に教育活動の方法原理の大切さが語られているだけではない。もはや、椅子にすわって教科書から学ぶだけでは、産業社会に生きていく人間の資質は形成することができない、という認識が込められているのである。ちなみに、この標語自体はデューイのものではない。

[宮寺晃夫]

マカレンコと集団主義

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20世紀の教育改革運動の諸相

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日本の新教育運動

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教育の現代化

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教育権と学習権



 261


教育権の歴史的展開

近代の初めに、一般的には子供の権利の承認が、また教育的には子供の教育を受ける権利、つまり学習権が発見された。この発見は二つの問題を含んでいた。第一は、子供の内面の形成にかかわる問題であって、教育は国家権力が干渉できない私事事項とされ、教育の私事性(市民社会において人を教育することは私事であるという考え)が求められた。第二は、教育方法における子供の自主性尊重の問題であって、詰め込み教育が強く否定され、また望ましい教育形態は、親や家庭教師による家庭での個人指導であることが主張された。

[大谷光長・神山正弘]

学校の誕生

やがて、学校を必要とする社会事情が生じた。学校という教育機関で、近代教育の理念をどう生かすべきかの問題が、新しい教育課題となった。この新教育課題の解決において、公権力からの教育の独立と教育の私事性の組織化とが、依然として大きな比重を占めていた。学校は公費によって設置され、また公立学校は無料、子供の就学は強制されない、という認識が定着していった。そして、教育はもっぱら知育に限定され、公教育から宗教・道徳の教育が除かれ、徐々に教育の世俗性が浸透していった。このようにして公教育の輪郭がしだいに明らかにされたのである。

[大谷光長・神山正弘]

近代教育思想の変容

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日本における教育権の変遷

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国民教育制度の発展





教育の機会均等と歴史的発展



 18


教育の機会均等と義務教育




統一学校の成立と歴史的展開



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教育領域の拡大・生涯教育

3

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日本の国民教育制度

日本の国民教育制度の成立事情は、ヨーロッパ諸国のそれと比較して著しく異なっている。なるほど、日本の学校制度のなかには、ヨーロッパの学校制度の模倣・移植が若干みいだされる。たとえば、統一学校がそれである。しかしそれは、見せかけの統一学校であったということができる。1872年(明治5)文部省は「学制」を発布し、統一的な国民教育制度を発足させた。けれども、そのための財政の裏づけは皆無であった。初等・中等・高等の3階梯(かいてい)の学校制度が、学区制によって全国統一的に実施された。思うに、統一的学校制度を実現しようとする努力は、それなりに評価されてよい。が、精神の伴わない形だけの模倣は、その後の国民教育制度の展開をゆがませてしまった。「学制」の趣旨は、身分・性別・貧富などを問わず、すべての国民が就学できる点にある。ところが、学校は、立身出世するため学問をするところであり、その意味で学校は、各人に役だつことを教えるところであるとされた。そのため、学校に必要な経費は受益者負担が原則とされ、また徹底した中央集権制が採用された。「学制」の内容を分析して気づくことは、子供の権利としての学習権はみいだされるが、それは「子供の自由」に裏づけられていないことである。教育費も無償でなくて、受益者負担であった。このようでは、教育の機会均等はしょせんたてまえ論の域を出るはずはなかった。

 明治前期から後期、そして大正期、さらに昭和の初期、対日講和条約(1952発効)以前の中期を通して、統一学校の国民教育制度は一貫してその命脈を保ってきたが、各時期の特質でその中身は大きく変わってきた。そして、昭和も中期以後、つまり第二次世界大戦後占領下の、また講和条約以降の教育になって、初めて統一学校は子供の権利(自由)の実現を目ざし、近代教育理念の実現が課題となったのである。

[大谷光長・神山正弘]

日本の教育

日本の教育は、大きく分けて、まず大陸文化依存の教育時代、次に日本文化自覚の教育時代、そして西洋文化摂取の教育時代を経て、現代の高学歴の教育時代に達したとみることができる。以下に日本教育史を概観する。

[大谷光長・神山正弘]

大陸文化依存の教育

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日本文化自覚の教育

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西洋文化摂取の教育

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高学歴時代の教育

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各国の教育の歴史


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アメリカの教育
植民地時代

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18世紀の教育事情とアメリカの独立

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19世紀の教育事情、とくに教育改革運動

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20世紀前半の教育事情

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20世紀後半の教育事情

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ドイツの教育
ドイツ中世の教育事情

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近世・近代の教育事情

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ドイツ帝国成立前後の教育事情

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ワイマール憲法下の教育事情

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ヒトラー政権下での教育事情

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東西二つのドイツ

第二次世界大戦後、東ドイツ(ソ連占領地区)においては、着々と地方自治機関の建設が進行して、ソビエト的民主主義による国家機構が実現していった。西ドイツ(アメリカ・イギリス・フランス3国占領地区)においては、1946年8月に連合国軍による対ドイツ教育政策の基本方針が示され、政治的・道徳的再教育による正義の原理の回復が求められた。アメリカ教育使節団は、アメリカ占領地区の教育事情を視察して、そのリポートを提出した。それは日本の場合と同様、強制力をもち、内容もほぼ似通ったものであった。ナチズムの根絶と民主主義の発展とを教育の基本線とすること、単線型の統一学校制度を実施すること、教育の機会を拡充し、その均等を保障すること、ならびにアメリカ流の社会科を教科目として採用すること、などがうたわれていた。

 やがて東西の冷戦が激化し始めた。1947年のトルーマン宣言およびマーシャル計画を通して、西側の対ドイツ政策はソ連の協力を拒否するまでになった。西ドイツは西側防衛共同体の一環に組み込まれ、その時点で東西ドイツの統一構想は絶望的になった。1949年5月アメリカ・イギリス・フランス地区ではドイツ連邦共和国基本法が公布され、同年9月にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が発足した。同年10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、東ドイツはソ連の傘下に入った。

[大谷光長・神山正弘]

州における自治権と教育の独自性

旧西ドイツにおいては、1960年代の終わりになって、国民教育の計画拡充とその根本的改革とが始まった。旧西ドイツは11の州からなる連邦国家で、各州に広範な自治権が与えられていた。教育においても各州の独自性が尊重され、多様な教育制度が保障されてきた。各州は、学校制度を、各州の歴史的・社会的現実に即して自主的に形成し発展させてよい権利をもっている。しかし、これは同時に、弱点をもつことにもなる。つまり、教育政策の決定に際して、連邦政府の権限が僅少(きんしょう)であるため、学校行政の無統制が生じるおそれがある。1969年の基本法の改正ではこの点が考慮されて、教育計画の策定における連邦政府の権限の拡大がうたわれた。

 第二次世界大戦後このかたの旧西ドイツ教育政策の経過を概観してみると、次の諸点に気づく。まず、戦争の残した諸事項の後始末のための政策、次に、学術と研究を表面に打ち出した政策と、教育内容の拡充・改善のための政策、さらに、青少年の学校紛争、高等教育の大衆化と生涯教育、ならびに青少年の学力低下と非行などへの対応的政策が、中心的教育課題であった。教育制度についてみると、初等教育では全日制義務教育年限を10年とする計画が進められており、前期中等教育では、中等教育の最初の2学年を観察指導段階として組織して、早期の進路固定化の弊害を防ぐ配慮がなされてきた。また後期中等教育では、ギムナジウムの現代化、民主化、効率化が試みられ、そして高等教育においては、1976年の「大学綱法」の制定によって、大学の組織・管理、その他の改革・再編が進められてきた。

[大谷光長・神山正弘]

ドイツ統一と教育

1980199010

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中国の教育

中国の教育史は、1912年2月の中国最後の皇帝溥儀(ふぎ)の退位を境として、それ以前の教育史とそれ以後の教育の流れとに大別できる。

[大谷光長・神山正弘]

溥儀退位以前の中国の教育

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新中国の教育事情

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ロシアの教育

ロシアの教育は、1917年2月ツァーリ専制政体の崩壊、そしてブルジョア民主主義革命の誕生を境界線として、それ以前をロシア教育史、それ以後をソビエト教育史として、また、ソ連崩壊以降は現代ロシア教育として語ることができる。

[大谷光長・神山正弘]

ロシア教育史

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ソビエト教育史

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現代ロシアの教育

1991年12月のソ連崩壊後、ロシアでは国家の再構築が進むなか、国公立教育機関の脱共産党化を図るとともに、市場経済への移行に伴い、私学の設置など多様な教育への転換が進んでいる。従来の学校体系は維持されているが、リセ、ギムナジウム、カレッジなどの新しいタイプの学校の創設や、学位、資格の多元化が進んでいる。

[大谷光長・神山正弘]

インドネシアの教育

インドネシアは多島国であって、大小合わせて1万7000の島々が点在する。そのなかで比較的大きな島は、スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、スラウェシ島、ニューギニア島などである。これらの島々に1億7900万(1990)を超える人々が居住している。しかし、そこには、かつてヨーロッパ人と日本人によって土足で踏みつけられた苦い思い出が秘められている。インドネシアの教育は、この過去のインドネシアに対する他国の束縛と掣肘(せいちゅう)と侵略史とを知らずには、正確に理解することはできない。

[大谷光長・神山正弘]

16・17世紀のインドネシア

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18・19世紀のインドネシア

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インドネシア人のための最初の学校

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20世紀の学制改革と激動

20世紀に入ると、学校制度の改革が始まり、オランダ語が教科目として組み入れられ、修業年限も延長された第一級学校、都市の一般住民・賃金労働者を教育することを目的とする第二級学校、慈悲を基調とし、地方在住の一般大衆のための新しい学校である国民学校(村落学校)などが建設された。そして、村落学校に付設された継続学校、さらに第二級学校や村落学校の卒業生を西洋式学校に橋渡しをする連鎖学校の創立と続いた。また、インドネシア人のための中等教育・高等教育機関にしても、しだいにその体裁を整えていった。日本の高等学校に相当するミュロ学校や普通中学校が誕生し、バンドンに工科大学、バタビア(ジャカルタ)に法科大学・医科大学が建設された。しかし、第二次世界大戦はインドネシアの発展に大きな非運をもたらした。1942年、インドネシアはオランダの植民地から日本の占領地にかわり、軍政が敷かれた。徹底した同化政策の実施で、日本は、言語教育(日本語の強制普及)を中心とする6年制国民学校を普及させることに熱心であった。そして1945年8月、ようやくインドネシアは念願の独立の喜びの日を迎えた。

[大谷光長・神山正弘]

独立後の基本方針と教育事情

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世界の教育改革
アメリカの教育改革

1970年代から、日本をはじめ急速に工業化が進んでいるアジア諸国に対する産業競争力にかげりがみえはじめ、先行きの経済力に不安が広がりだした。そのため、新たな技術の開発に迫られ、教育戦略に国家予算を重点的に配分することが認められるようになった。そのきっかけをつくったのが、「優秀性(エクセレンス)の教育に関する全米委員会」の報告書『危機に立つ国家――教育改革の至上命令』(1983)である。この文書のなかで、アフリカ系アメリカ人や低所得者層など比較的教育の機会にめぐまれていない階層の子供に対する補償教育が、期待されたほどの経済効果を生んでいないことが統計の上からあきらかにされた。その一方では、言語教育など基礎能力の向上に直結する分野の科目の充実と、高度な才能をもった人材へのさらなる教育機会の継続が、今後どれだけの利益を国家にもたらすかが査定された。

 1960年代のケネディ、ジョンソン両大統領の時代に、公民権拡大運動の盛りあがりを背景にして、これまで歴史的に不当な差別を強いられつづけてきた階層に対して、その代償として教育の機会を優遇していく積極策が、「アファーマティブ・アクションaffirmative action」の名のもとで推進された。大学に有色人種出身の受験生を優先的に受け入れていく特別枠は、白人受験生の側から、「不公平である」「逆差別である」という提訴を繰り返し受けながらも、多くの大学で正当な制度として定着してきた。また、白人居住地域の子供と黒人居住地域の子供を半数ずつ、同じ学校に強制的に通わせる「バス通学制度」(バッスィングbussing)も、多大な社会的コストを払いながらも続けられた。このような、社会全体の負担で維持されてきた制度も、共和党のレーガン政権の時期以降、個人の自由な教育選択の尊重と、経費節減などの理由で見直しを迫られた。

 1990年代の民主党政権の時代になり、国家の財政が全般的に立ち直りをみせてきているにもかかわらず、教育財政は公共事業としての公立学校の充実に向けて投入されるよりも、教育を個人の判断で受けることを保障する新たな傾向に対して重点的に投入されてきている。「チャーター・スクール」とよばれる、親たちが共同で企画し地区の教育委員会が認可を出していくような私設の学校にも、条件つきで公費による助成がなされてきている。そうした公的助成は、もはや例外的な措置ではなく、これからの国家的な教育助成のモデルとして、1998年のクリントン大統領の教書で推奨されている。アメリカでは、学校は伝統的に「社会の平等化装置」として公共的性格が重要視されてきたが、その公共性を、個人の意思のレベルに立ち戻って再検討していく時点にさしかかっている。

[宮寺晃夫]

イギリスの教育改革



 1980

 19887111416LEAILEAILEA1988LEA

 

 1997Department for Education and Employment


フランスの教育改革

19601970

 197070

 19801989


ドイツの教育改革

ドイツでも、かつてトルコから大量に迎え入れた移民労働者との共存を模索する試みがなされてきており、ドイツ人の子弟とトルコ系住民の子弟が、互いに相手の言語を学びあうような学校をもつ州もでてきている。そうした異文化間教育の実施は、連邦共和国全体の方針としても確認されるようになってきており、1996年には、常設文部大臣会議において「学校における異文化間教育」が勧告されている。

[宮寺晃夫]

日本の教育改革

198459調1990

 



19291930194319491960 31961196219681969197161971 3197541978UP25619871987121989199019921998R 1195421956E1960西1962 4196319641965RS1971I1971RF1974197517181975197661976M 197619761112197715161977121977E1979P1980JF1981 10198119831986JS198619881988F19901990西199120001992J1993S5219931993199619961996199619971997199819981999JJJJJ

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改訂新版 世界大百科事典 「教育」の意味・わかりやすい解説

教育 (きょういく)


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 2
   

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百科事典マイペディア 「教育」の意味・わかりやすい解説

教育【きょういく】

 
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「教育」の意味・わかりやすい解説

教育
きょういく
education

教え育てること。知識,技術などを教え授けること。人を導いて善良な人間とすること。人間に内在する素質,能力を発展させ,これを助長する作用。人間を望ましい姿に変化させ,価値を実現させる活動。以上のように教育という語は多義に使用されるが,陶冶,教化,育成,形成などと同義にも用いられ,またそれらを総括する語として広義にも用いられる。出典としては,『孟子』に「得天下英才,而教育之」とあるのが初めであるとされ,また英語,ドイツ語,フランス語などの語源は,「引出す」あるいは「引上げる」の意味であるとされている。教育は無意図的教育と意図的教育に大別され,方法上から養護,教授,訓練 (訓育) に区分され,内容上から知育,徳育,体育などに区分されることもこれまでしばしば行われてきた。また教育が行われる場によって,家庭教育,学校教育,社会教育に大別することもできる。教育の考え方としては,個人的観点を主とするものと社会的観点を主とするものとがあり,また社会的観点にも,社会のもつ本質的機能としてみる立場,社会を改造する機能を重視する立場など種々のものがある。

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普及版 字通 「教育」の読み・字形・画数・意味

【教育】きよう(けう)いく

 


 

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デジタル大辞泉プラス 「教育」の解説

教育

田中千禾夫による戯曲。1954年、劇団俳優座により初演。1955年、第1回新劇戯曲賞(のちの岸田国士戯曲賞)の候補作品となる。第6回読売文学賞(戯曲賞)受賞。

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