デジタル大辞泉
「プーマ」の意味・読み・例文・類語
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プーマ
- ( Souvanna Phouma スワンナ━ ) ラオスの政治家。王族の出身で、中道派の指導者。一九四五年、独立を宣言した臨時抗戦政府に参加。統一政府樹立後、五度にわたって首相を務めた。(一九〇一‐八四)
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プーマ
Phouma
生没年:1901-84
ラオスの政治家。正しくはスワンナプーマSouvannaphouma。ルアンプラバン王家副王の王子として誕生。ベトナムのハノイで中等教育を受けたのち,1924年フランスに留学して建築学,電気学を学び,31年帰国,技官として公共事業局に勤務。45年ラオ・イッサラ︵自由ラオス︶政権の建設・運輸相を務め,49年フランス連合内でのラオス王国の独立後,51-54年に首相を務めた。56年に再び首相となり,パテト・ラオとの連合政府を樹立した。中立主義を主張して58年に右派の圧力で失脚したが,62年のラオス中立化で,中立派・左派・右派連合政府の首相となった。その後約10年間首相の地位にあったが,75年の革命により,ラオス人民民主共和国政府顧問の地位に退いた。
執筆者‥吉川 利治
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プーマ
ラオスの王族。正しくはスワンナプーマSouvannaphouma。スパヌウォンの異母兄。1951年以来しばしば組閣。初め右派と争ったが次第に妥協。1961年中立党を結成,党首となり,1962年スファヌボンの率いる左派が連立政府を脱退した後は,右派・中立派などの連合政府首相として親米反共の態度を強化した。1975年辞任。
→関連項目パテト・ラオ|ラオス
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プーマ
Suwanna Phuma
1901~84
ラオスの政治家。ルアンパバーン王族の生まれで,ベトナムとフランスで教育を受ける。1945年独立運動に参加。中立主義を掲げ,王国政府および連合政府の首相(在任1951~54,56~58,62~75)。ラオス人民民主共和国成立後は政府顧問。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内のプーマの言及
【ラオス】より
…これに対して,日本の敗戦直後に結成されたラオ・イッサラ(︿自由ラオス﹀の意)は,45年10月ビエンチャンにラオス臨時政府を樹立した。この政府はフランス軍に押されて46年4月にタイへ移り,亡命政府となったが,閣僚の中にはのちに活躍する[プーマ]や[スパヌウォン]がいた。一方,フランス側についたシー・サワン・ウォン王のルアンプラバン王国は,46年8月にフランスと協定を結んだ。…
※「プーマ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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