デジタル大辞泉
「ペリクレス」の意味・読み・例文・類語
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ペリクレス
Periklēs
生没年:前490ころ-前429
古代アテナイの著名な軍人,政治家。父はクサンティッポス,母は名門アルクメオン家出身のアガリステ。前472年ペリクレスは,サラミスの海戦に取材したアイスキュロスの悲劇︽ペルシアの人々︾の上演に際してその費用を賄う合唱隊奉仕者︵コレゴス︶となっている。前465年にはタソス島がアテナイから離反してキモンがその征討に当たったが,前464年の地震に際して反乱したヘイロータイに悩まされたスパルタがアテナイに救援を依頼したためキモンがタソスから兵を返すと,ペリクレスは大物キモンを相手どって収賄容疑の告発を行った。前462年スパルタ支援のキモンの留守中にペリクレスは民主派の指導者エフィアルテスに協力して民主的改革を断行し,アレオパゴス会議の政治的実権を剝奪して骨抜きにし,民会と民衆裁判所の権限を強化した。貴族政以来の高官たちの司法権もこのとき制限されたと思われる。キモンも前461年オストラキスモス︵陶片追放︶で国外に退去させられた。
ペリクレスは民衆裁判所審判人に対する日当支給を導入したり,筆頭アルコンへの就任資格を市民第3級のゼウギタイに拡大するなど徹底民主政への施策をとるとともに,反スパルタ・反ペルシアの路線を明らかにして二面戦争を遂行した。中心市アテナイと外港ペイライエウスとを結ぶ長城を完成させ,前454年エジプト支援のアテナイ海軍が潰滅するとデロス同盟の金庫をアテナイに移させ,年賦金︵フォロス︶の60分の1をアテナ女神の初穂として徴集した。同盟を︿アテナイ帝国﹀として経営するアテナイの姿勢はペリクレスの積極政策においてはっきり表面化した。ペリクレスは前451あるいは450年,アテナイ市民権を両親ともアテナイ人である者に限ると定めた市民権法を成立させ,アテナイ国家の市民団としての封鎖性を具体化させた。前449年︿カリアスの和約﹀によってペルシア・アテナイ間の講和が成立すると,まもなくペリクレスは全ギリシア会議の召集を各国に向け呼びかけたが実現を見なかった。同盟民の年賦金を流用したパルテノン神殿の建築はその直後の前440年代初めから始まる。
前446年のエウボイア反乱に対しては厳しい処置で臨み,その直後,現状維持を図ってスパルタと三十年和約を締結した。政敵トゥキュディデス︵有名な歴史家とは別人︶を前443年のオストラキスモスで国外退去させた後は連年将軍職に選ばれて︿一人支配﹀を実現した。パルテノンをはじめアテナイに美観を添える大土木工事が推進され,彼とその愛妾アスパシアの文化サークルには国の内外から多くの学者,芸術家などが集まって︿ペリクレスの黄金時代﹀を現出させた。しかし,前433年コルキュラの内紛に介入してコリントスとの対立を強め,翌年には︿メガラ決議﹀によって隣国の通商活動に打撃を与えて反目を買い,前431年勃発のペロポネソス戦争への道を突き進んだ。アッティカ住民を長城内に疎開させ海軍を主力に戦うペリクレスの作戦は,開戦翌年に疫病の蔓延を招き,同年将軍職を失ったばかりではなく,みずからも病魔に倒れた。
執筆者‥馬場 恵二
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ペリクレス
古代ギリシア,アテナイ︵アテネ︶の軍人,政治家。名門の出身で,前462年ころ保守勢力の牙城アレオパゴス会議の実権を奪い,民会,評議会,民衆裁判所に分権し,抽選で選出された役人に日当を支給するなど国制の民主化に努めた。またデロス同盟を従え,アテナイの帝国化も積極的に推進。前446年エウボイア反乱を鎮圧し,スパルタと30年間の和約を結んだ。前443年以後毎年将軍に選出されてペリクレス時代が出現し,アテナイ民主制の最盛期を迎えた。現存のパルテノンの造営など文化面で果たした役割も大きい。ペロポネソス戦争中に病死。
→関連項目アナクサゴラス|クレオン|フェイディアス
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ペリクレス
Perikles
古代ギリシアのアテネの政治家
名門の出身で,保守派のキモンらを追って政権を握り,民主政治の徹底につとめるいっぽう,デロス同盟を指導してアテネ帝国の実現と,海上権の強化を行った。前443年から約15年間,最高ストラテゴス︵将軍︶としてアテネを指導し,徹底した民主政治を完成。また,文化を奨励してペリクレス時代と呼ばれるギリシアの黄金時代を現出した。デロス同盟の資金を流用してパルテノンその他の大神殿建築を行い,アテネ防衛の大城壁を築いた。ペロポネソス戦争の指導中,ペストにより死亡。
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世界大百科事典(旧版)内のペリクレスの言及
【アスパシア】より
…その才知によりソクラテスなど知識人をもひきつけた。[ペリクレス]は最初の妻を離縁して他に嫁がせ,彼女を内縁の妻とした。前432年ごろ,ペリクレスの政敵により瀆神罪で訴えられたが,ペリクレス自身の弁護により放免された。…
【アテネ】より
…現在,アテネ市の都心部はアクロポリスの北東に向け扇状をなして広がり,各種の公共施設もこの地域に集まっている。
︻歴史︼
アテナイの名とともにだれしも思い浮かべるのは,ペリクレス,ソフォクレス,プラトン,デモステネスといった人々に代表される,この都市の古典期(前5~前4世紀)の歴史と文化であろう。この時代は総じて古代ギリシアの盛期にあたるが,中でもアテナイは数あるポリスの間でスパルタと並んで政治的・軍事的に最大の勢力を誇るばかりか,文化創造の面でもひとり群を抜く存在であった。…
【ギリシア】より
…このような気運の中でデロス同盟はアテナイに貢租を義務づけられる︿アテナイ帝国﹀の服属国の観を呈し,一方アテナイ市民は国家財政に依存することが多くなっていった。ペリクレスの時代に徹底した民主化が実現され,アクロポリスが美化されえたのもこのような事情があったからであった。奴隷制もまたこの世紀には鉱工業を中心に大いに発展し,奴隷入手も比較的容易になり,小農民でも1~2人の奴隷をもつことができるようになった。…
【ストラテゴス】より
…前487年の抽選制導入により[アルコン]職の地位が低下すると,挙手による選出のうえに重任が許されていたため,この職の比重は増大した。ペリクレスがアテナイの政界で長年指導的位置を占めたのも,彼が連年15回もこの職を務めたことが大きい。ストラテゴスは軍事に関連する広範な権能を有していたが,年に10回の職務審査が義務づけられていた。…
【テオリコン】より
…アテナイにおいて公共の諸祭典の折,国家によって貧窮市民に支払われた手当。前5世紀中ごろペリクレスによって導入された。前4世紀には専門の財務官団をもつ〈基金〉として,独立の財政部門を形成した。…
【ペロポネソス戦争】より
…前431年から前404年にかけて,アテナイを盟主とする[デロス同]盟と,スパルタを中心とする[ペロポネソス同盟]とが,古代ギリシア世界を二分して戦った大戦争。
﹇原因と経過﹈
前435年,ギリシア本土北西岸の植民市エピダムノスの党争をきっかけにコルキュラとコリントスが対立し,前433年,両市の戦いに際しアテナイがコルキュラ救援軍を送ったことにより,アテナイとペロポネソス同盟の有力市コリントスとが争うようになったのが戦争の直接の原因であるが,[ペリクレス]の指導の下にデロス同盟の盟主としてギリシア随一の勢いを示すアテナイに対し,スパルタが不安と反感を抱くにいたったところに,その遠因があったと考えられる。 前431年5月,ペロポネソス同盟軍のアッティカ侵入をもって戦いは始まった。…
※「ペリクレス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」