デジタル大辞泉
「アテネ」の意味・読み・例文・類語
アテネ(Athina/〈ラテン〉Athenae)
都市国家を形成、古代ギリシャ文化の中心地。パルテノン神殿などの古代遺跡が残るアクロポリスは、1987年、世界遺産︵文化遺産︶に登録された。人口、行政区79万︵2001︶。アテナイ。
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アテネ
- [ 一 ] ( Athēnē ) ⇒アテナ
- [ 二 ] ( [ラテン語] Athenæ ) ⇒アテナイ
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アテネ
Athínai
ギリシア共和国の首都。人口は2001年現在,アテネ市75万,近郊を含む大アテネ312万を数える。古代ギリシア語ではアテナイAthēnai。その都市としての起源は古代にさかのぼり,今日なお往時の遺跡を豊富に残している。古代においては,前8世紀以降,この町を中心に,中部ギリシアの南東端に突き出た半島状のアッティカ地方全体を領域として,都市国家すなわちポリスが形成され,前2世紀,ローマの支配に服するまで独立の国家としての存立を保った。古代史に関しては,したがってこの都市国家全体とその中心市とを,ともにアテナイ︵アテネ︶と呼ぶ。
地理と現況
アテネ市はアッティカ半島の西側,サロニコス湾に面し,同湾沿岸中央部より約5km北東に入った地点に位置する。南西方,サロニコス湾岸に外港ピレウスを有し,それを通して世界各地とつながる。現代ギリシアの政治・経済・文化の中心をなすとともに,古代においても,盛期ギリシア世界を主導する役割を演じた。後背地としてのアッティカは,日本の佐賀県にほぼ匹敵する広さをもち,北方・北西方は山脈をへだてて,それぞれボイオティア,メガラに接し,南方・東方および南西方は海に囲まれている。この地方は地味に乏しく穀作に適しないため,古代においてはオリーブなどの果樹の栽培が盛んであったが,他面,半島南東隅のラウリオン地区に地中海世界屈指の銀鉱山を擁し,そこから産出する良質の銀が盛期アテナイの経済的繁栄を支える一因となった。今日でも,半島南端スーニオン岬近傍におよぶこの地区一帯に,おびただしく残された鉱坑・選鉱場・溶鉱炉の遺跡が,古代における銀鉱採掘の実状を伝えている。
アテネ市は,北をパルネス山︵1412m︶,北東をペンテリコン山︵1109m︶,南東をヒュメットス山︵1027m︶,北西をアイガレオス山︵453m︶に囲まれ,南西部をサロニコス湾に向かって開くアテネ平野のほぼ中央に位し,市の中心にけわしい石灰岩の岩山アクロポリス︵156m︶が,また北東部には同じく急峻なリュカベットス山︵277m︶がそびえて,この町の景観に著しい特徴を与えている。アクロポリスは古代アテナイ国家の城砦であると同時に,宗教的中心としての役割をも果たし,この丘の北西麓にある広場すなわちアゴラとともに市民生活の中心であった。アクロポリスは,今日パルテノンをはじめとする優れた神殿遺跡により古代の盛時をしのぶよすがを与え,アゴラもまた1930年代以降,アメリカ考古学界による組織的な発掘調査の結果,列柱廊,役所,会議場,神殿など,ローマ時代にいたる各種の遺跡が明らかにされて,古代の市民生活の復元に貴重な貢献をしつつある。古代の中心市アテナイは,このアクロポリスとアゴラを中心に広がり,町の周囲を城壁で囲んでいたが,現在の市街はその範囲をはるかに越え,ことに南・北と東に延びて,北はリュカベットス山の北麓におよび,南はサロニコス湾に達して,さらにピレウスと連なるまでにいたっている。現在,アテネ市の都心部はアクロポリスの北東に向け扇状をなして広がり,各種の公共施設もこの地域に集まっている。
歴史
アテナイの名とともにだれしも思い浮かべるのは,ペリクレス,ソフォクレス,プラトン,デモステネスといった人々に代表される,この都市の古典期︵前5~前4世紀︶の歴史と文化であろう。この時代は総じて古代ギリシアの盛期にあたるが,中でもアテナイは数あるポリスの間でスパルタと並んで政治的・軍事的に最大の勢力を誇るばかりか,文化創造の面でもひとり群を抜く存在であった。そして世界史上,まれにみる徹底した直接民主政を完成し,文学,哲学,歴史叙述,美術の諸領域で,現代にいたるその後の発展のあり方をすでに初発において決するかのような高度の達成を遂げた。この時期のアテナイを語ることは,ギリシアの栄光を語ることに通じるが,しかしそこにいたるまでにはアテナイにおいても,ポリスの成立と発展という他のギリシア諸地域と共通の歴史があり,前4世紀末以後のポリス衰退期や中世初頭から19世紀前半にいたるギリシア民族の雌伏時代についても,同じようにギリシア史そのものの歩みとの関連に注意が向けられなくてはならないであろう。
ポリスの形成
ギリシア人の第1の波がアッティカ地方に南下定住したのは前2000年ころと推定されるが,前2千年紀中葉には,たとえばペロポネソス半島のミュケナイやスパルタにおけると同様,この地でもアクロポリスに王城をもつ小王国が成立していた。このミュケナイ時代の王国は,史料的に詳細な推論が可能な同種のピュロス王国からの類推によれば,官僚制の萌芽ともいうべき役人組織と在地の豪族とを介して,王が民衆を支配する構造をとるものであったと考えられる。ミュケナイ時代の諸王国は,前1200年ころから前1100年ころにかけて外敵の襲撃を受け,次々に滅んでいくが,アテナイだけは外部からの侵入を防ぎきり,︿暗黒時代﹀と通称される動乱と混迷の時期にあって,なおしばらく王政を維持し,また原幾何学様式や幾何学様式の陶器の生産において他を圧していた事実が示すように,経済あるいは文化の面でも,他の地域に比して高い水準を保ち続けた。
ミュケナイ時代末期から暗黒時代にかけての混乱は,しかしアテナイに対してもなにがしかの影響を与えている。崩壊した諸王国の住民が大挙してアッティカ領域内に移動して,この地方の人口が異常に増大した。そして伝承によれば,在来のアテネ王家に代わって,ピュロス王家のメラントスMelanthosという移住者がアテネ王となり,その孫の一人ネレウスNēleusは膨張したこの地の住民の一部を率いて,海路イオニアに植民し,他の一人メドンMedōnはアテナイの王位を引き継いだという。メドンの血統をひく人々すなわちメドン家が以後,暗黒時代のアテナイを指導するが,その初期にすでに王政のあり方に重大な変化が生じていたらしい。同じく伝承によれば,このころ王権は三分されて,軍事指揮者としてのポレマルコスpolemarchos,政治の実権を握るアルコンの二つの職が設けられ,王︵バシレウスbasileus︶には祭祀にかかわる権限が残された。のちのアルコン職の起源をなすこの三つの役職は,当初メドン家によって占められ,任期も終身だったと伝えられるが,このような制度上の変化が,王権の縮小と在地の豪族たちの地位の向上につながったことは想像に難くない。その結果,前8世紀半ばアルコンなどの三役に10年任期制が導入され,おそらくメドン家以外の人々にも就任の機会が与えられるようになるが,それとほぼ時を同じくして在地の有力者たちは,支配下の民衆に対する掌握を共同の力でより確かなものとするために,一斉に中心市アテナイに集住︵シュノイキスモス︶し,貴族としての連帯を固めた。メドン家は一有力貴族の地位に甘んずることになり,アテナイの王政は終りを告げて,多数の貴族が共同で政権を握るポリスとしての新しいアテナイ国家が誕生する。
貴族政から民主政ヘ
この貴族政ポリスの制度的完成を示すのが,前683年のアルコンなど三役への1年任期制の導入である。その人の名でアテナイの暦年が呼ばれるならわしとなったアルコンは,国家の筆頭職として,こののち前5世紀前半まで政治的に重きをなした。アルコンなどの三役に加えて,前7世紀前半から法律担当の6人のテスモテタイthesmothetaiが任ぜられるようになり,ここに9人から成る広義のアルコン職が成立する。これらアルコン職の経験者のなかから任期終身の貴族政的評議会が選ばれ,その集会の場がアクロポリスの西につらなるアレオパゴス︵アレイオス・パゴス,軍神アレスの丘︶であったところからアレオパゴス会議と呼ばれて,以後,前5世紀半ばまで貴族支配の拠点となった。
古代ギリシアにおける貴族支配は,しかしながら貴族と平民との身分差が小さいところに特色がある。この事実を示すのがボイオティア生れの詩人ヘシオドスの作品︽労働と暦日︵農と暦︶︾︵前700ころ︶であって,それによれば農民たちは貴族の政治的支配に服しながらも,社会的には土地および奴隷の所有者として,ほぼ対等の立場にあった。ヘシオドス自身が示すような平民による仮借ない貴族批判も,このような社会的状況のたまものであり,またそこにこそポリス民主政成立の歴史的前提があった。
アテナイの貴族支配に初めて動揺の兆しが見られるのは,前632年のキュロンの反乱である。名門貴族出身のキュロンの目的は,当時アテナイ国内に醸成されつつあった平民たちの不満を背景に,貴族の集団支配を倒して非合法の独裁政権すなわち僭主政を樹立しようとするものであったが,この企ては失敗におわった。しかしこの頃すでにアテナイでも確立されていた重装歩兵制では,平民の働きに依存するところが大きかったので,貴族たちも平民の政治的要求にしだいに応じざるをえなくなった。その第一段階をなすのが前624年のドラコンの立法で,この法はそれまでの慣習法を集成し,明文化することによって,貴族による法の恣意的解釈に歯止めをかける効果をもたらした。
アテナイ民主政の成立にとり,より大きな画期をなしたのは,前594年のソロンの改革である。この頃アッティカでは多数の農民が経済的苦境に陥って貴族・富裕者への借財に頼らざるをえなくなり,その際抵当として自らの身体を供したために,それまでの所有地を耕しつつ収穫の6分の1を債権者に納める義務を負うとともに,それを果たしえないときは奴隷として売られる事例が頻発した。貴族・富裕者と一般農民との間に生じた深刻な社会的亀裂を救うべく,市民たちの輿望を担ってアルコンに就任したソロンは,借財の帳消しを断行し,そのうえ以後,市民の間で身体を抵当として借財することを禁じた。これによって当面の危機が回避されたばかりでなく,こののちアテナイ市民がアッティカ領域内で奴隷に転落する道が断たれて,ポリス市民団の枠組みが確立した。ソロンはさらに市民を家柄でなく財産の額によって4等級に分け,それぞれについて政治への参与の権利を定めた。この制度は,上層の平民にも貴族と並んで積極的に国政に参加する可能性を分け与えるものであった。
ソロンの改革は貴族と平民とを共に満足させるにいたらず,その後もアテナイでは三つの党派による苛烈な党争が展開されるが,それはしかし貴族政から民主政への着実な前進の過程であった。その第1の節目は,山地党の領袖ペイシストラトスによる僭主政の樹立である。前6世紀中葉,再度にわたる追放にも屈せず僭主としての地位を確立したペイシストラトスは,貴族の共同支配を否定し,一般市民に対しても武器の取上げを図るなど,非合法的な独裁者としての側面を示す一方,中小農民の保護育成に努め,国家の祭祀を盛んにし,また中心市アテナイの整備に尽力するなど,その治績は大いにあがった。とくに農民育成策は,彼ら農民の実質的な地位の向上につながるものとして,ソロンの政策をさらに一歩前進させたものと評価することができる。
ペイシストラトスの僭主政に次ぐ節目をなし,しかもアテナイ民主政成立史上,ソロンの改革とともに最大の転回点を形づくるのが,前508年のクレイステネスの改革である。前510年,ヒッピアスの代にペイシストラトス家の僭主政が倒れたのち,激しい党争をへて,海岸党を率いるアルクメオン家のクレイステネスが政権を掌握し,多数の市民の支持の下に一連の改革を行った。その根幹をなすのが,旧来の四部族に代わる新たな十部族制の創設である。独特の工夫をこらし,地縁的原理に立脚したこの十部族制は,アテナイ市民団の抜本的な編成替えによって在来の貴族支配の基盤を掘り崩す役割を果たしただけでなく,こののち古典期を通じて軍隊の編成や役人同僚団の選出にさいし,基本的単位として用いられて,国制の骨格を形づくることになる。僭主となるおそれのある有力者を市民たちの投票によって10年間の国外追放に処した陶片追放︵オストラキスモス︶の制度も,クレイステネスの創案によると伝えられる。
ポリス民主政の確立
前7世紀から前6世紀にかけ政治・経済・軍事の諸分野でスパルタ,コリントス,アイギナなどの諸ポリスにむしろおくれをとっていたアテナイを,前5世紀前半にギリシア第一の地位にまで押し上げたきっかけは,ペルシア戦争での勝利である。平民の政治参加に制度上の道を開き,市民団の団結を固める前提を整えていたこと,有力な重装歩兵集団を擁したばかりか,ラウリオン銀山での大鉱脈の発見によって国庫が潤い,艦船の増強に成功したこと,ミルティアデス,アリステイデス,テミストクレスといった人材に恵まれたことなどの諸条件が幸いして,アテナイはこの戦争で抜群の働きを見せた。ペルシア軍がギリシア本土から撤退したのち,前477年にエーゲ海周辺諸市の輿望を担って対ペルシア攻守同盟すなわちデロス同盟の盟主の地位に就いたアテナイは,以後,前5世紀末までペロポネソス同盟に拠るスパルタと並んでギリシア世界を支配し,その上に立ってアテナイ民主政を完成させ,かつ文化的創造力を縦横に発揮した。
アテナイ民主政の完成は,前462年のエフィアルテスの改革によって遂げられる。前5世紀に入っても,アテナイでは名門貴族の支配の維持を目ざす寡頭派と,民衆の意向を背景に国政の主導権を握ろうとする民主派との争いが続いた。政争の中心には家柄と富裕を誇る貴族たちがいたが,この時期になると一般市民の発言力がいよいよ増し,彼らの動向を掌握する者が時代を主導していく。重装歩兵たりえた中堅市民の地位はすでに固く,下層市民の発言権も,彼らがサラミスの海戦で三段橈船の漕ぎ手として大きな働きを示したことから,著しく増していた。このような趨勢に棹さして民主政の徹底化を成就したのが,テミストクレスに続いて民主派の指導者となったエフィアルテスとペリクレスである。前464年のスパルタ大地震の直後,ヘイロータイの反乱を鎮圧するための援軍派遣要請を受けて,寡頭派の領袖キモンがアテナイ重装歩兵数千を率いてスパルタに赴いたその留守を突き,エフィアルテスらは,前462年,アレオパゴス会議の実権を奪って,貴族支配の最後の牙城を落とした。エフィアルテス暗殺ののちは,ペリクレスがキモンあるいはその後継者トゥキュディデス︵同名の歴史家とは別人︶と争い,彼らを陶片追放に付して,前443年ついに民主派に最終的勝利をもたらし,以後,前429年その死にいたるまでペリクレスによる単独指導の時代が続く。
ペリクレス時代を頂点とするアテナイの繁栄に転機をもたらしたのが,ペロポネソス戦争であった。敗戦の結果,アテナイはデロス同盟を失い,国内的にも市民数の減少や田園の荒廃など未曾有の打撃を被るが,前4世紀に入ると急速な立直りを見せ,とりわけ前377年にはアテナイ第二海上同盟を結成して,再びエーゲ海に覇を唱えるにいたる。しかし前4世紀半ばになると,北方のマケドニアの勢力が伸びてギリシア本土をうかがい,前338年,カイロネイアの戦でテーバイと組んで敗れたのちは,アテナイもコリントス同盟の一員としてマケドニアの政治的・軍事的指導に服することとなった。ギリシア世界はその様相を大きく変えて,ヘレニズム時代へと移行する。
古典期アテナイの社会と文化
前5世紀から前4世紀にかけてのアテナイは,政治・経済・文化のすべてにわたって,ギリシア世界の頂点にあった。アテナイにはギリシア各地から学者・芸術家が集まり,学芸の花が開いた。商工業も発展を遂げ,ピレウス港は地中海交易の中心となった。しかし都市国家アテナイをその根底において支えたのは,城壁外の村落に住む市民身分の農民たちであった。彼らこそ重装歩兵として国防の中堅をなし,政治的にもポリス民主政の社会的基盤を形成した。ペロポネソス戦争直前における成年男子市民の人口3万~4万,その過半は城壁外に住んでいたと推定される。国政はすべて成年男子市民全員を成員とする民会の決定により,裁判も30歳以上の男子市民6000人から成る審判人が,そのときどきに一定規模の個別法廷を構成して行った。市民たちはまた各種の役職に交代で就任し,行政の任を分担したが,その際,1年任期制・同僚制・抽選制によって特定人物への権限の集中が周到に避けられている。クレイステネスによって創設された500人から成る民主政的な評議会が,立法と行政監督の両面で大きな役割を担ったのも,直接民主政を円滑に遂行するうえに必要な工夫であった。
アテナイ民主政には,しかしながら二つの限界が認められる。一つは婦人の社会的地位が著しく低かったこと,今一つは奴隷の使役が市民生活のあらゆる面に浸透し,ポリス存立の基盤の一つにまでなっていたことである。ペロポネソス戦争直前のアテナイの奴隷人口は8万~10万と推定され,農業・商業・手工業・鉱山業の各分野で盛んに使役されたほか,家内の雑用,公文書の記録・保管,市中警備などにおいても,奴隷の働きにまつところが大きかった。
市民と奴隷に加え,第3の中間的な身分として古典期アテナイの社会構成に重要な意義を有したのが,在留外人︵メトイコイ︶である。彼らは自由身分の非市民で,アテナイ以外のポリス出身者のほか非ギリシア人をも含み,参政権はむろんのこと,不動産所有権からも疎外されながら,同時に人頭税を課され,さらに市民と同様の軍役に服した。その人口は,ペロポネソス戦争直前,1万~1万5000と推定され,商工業や学芸の分野でアテナイの繁栄に著しい貢献をなした。彼らへのアテナイ市民権の賦与は,原則として認められなかった。これはポリス市民団のきわめて閉鎖的な性格を物語る事実であって,古典期のアテナイが市民相互の間では貴族・平民の別を解消し,政治的にも社会的にも自由で平等な関係を作り上げたのとは裏腹に,市民団の外に対しては特権的な支配者集団として臨んだことを,はからずも示している。
古典期のアテナイは,悲劇,喜劇,歴史叙述,哲学,弁論,壺絵,彫刻,建築の諸分野で,世界史上,容易に類例を見いだせぬほど多産な創造をなし遂げた。そのなかにあってアイスキュロス,ソフォクレス,エウリピデスの悲劇は,簡潔な構成のなかに人間存在の根源にかかわる問いを提出し,ソクラテス,プラトン,アリストテレスによって展開された哲学的思索とともに,その後のヨーロッパの文学と思想に深い影響を与えた。この時代,各分野にわたって産み出された古典的作品には,ポリス民主政のあり方が深く刻み込まれている。その端的な事例がイソクラテス,デモステネスの作品に代表される政治演説・法廷弁論で,これらは政治と裁判が多数の市民から成る民会と民衆法廷で決定された,当時のポリスの機構を抜きにして考えられない。史家の個性的な史観に裏打ちされたヘロドトス,トゥキュディデスの歴史叙述,痛烈な政治批判や社会風刺に彩られたアリストファネスの喜劇,ソクラテスにはじまる人間と社会とを正面から見据えた哲学的思索,あるいはまた神殿・劇場など公共建築物の圧倒的優位を印象づける遺跡の態様などにも,公共性と市民の自由とを重んずるポリス民主政の特質が刻印されている。総じて,ギリシア古典文化はポリスの産物であった。
ヘレニズム時代以後
前323年,アレクサンドロスが死去すると,アテナイは他のギリシア諸市とともにマケドニアに反旗をひるがえすが,翌年クランノンの戦で敗れ,以後,完全にマケドニアの支配下に立つこととなる。アテナイ民主政も事実上,終りを告げ,これよりのち︿デモクラティアdēmokratia﹀は党争のためのスローガンと化して,マケドニアの,そしてまた前2世紀中葉ローマがギリシア本土を制すると,ローマの後ろだての下に富裕市民が国政を専断する。ヘレニズム時代からローマ時代にかけて,アテナイは独立の国家としてのかつての栄光を失うが,しかしながら古代末期にいたるまで,なお地中海世界における学芸の都として人々の尊敬を集めた。
395年,ローマ帝国が東西に分かれると,アテナイは東ローマ︵ビザンティン︶帝国に属し,以後,急速に都市としての衰えを見せることになる。スラブ人の侵入,十字軍の支配といった試練をへたのち,15世紀中葉から19世紀前半まで400年近く,オスマン帝国の支配下に置かれて,苦難の道を歩んだ。1821年,ギリシア独立戦争が勃発すると,アクロポリスを中心にアテネは攻防の的となり,それが完全にギリシア人の手中に帰したのは33年のことであった。翌34年,アテネは独立ギリシアの首都となり,以後,近代都市として再生と発展の道をたどって,現在にいたっている。
→ギリシア
執筆者‥伊藤 貞夫
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アテネ
Athens
ギリシアの首都。古代ギリシア語ではアテナイ Athēnai,現代ギリシア語文語 (カサレブサ) ではアシネ Athínai,現代ギリシア語口語 (ディモティキ) ではアシナ Athína。アテネはラテン語に由来する言い方。 Athensは英語。バルカン半島南東部,アティキ (古代名アッチカ) 半島にあって,エガレオス (北西) ,パルニス (北) ,ペンデリコン (北東) ,イミトス (東) などの山地に囲まれたアティキ平野に位置し,南西はサロニコス湾に臨む外港ピレエフスに続く。ギリシアの政治,経済,文化の中心地。新石器時代以来人が住んでいたことは考古学的資料により知られるが,初期の歴史は明らかでない。アクロポリスの丘を中心に発展したアテネは,前8世紀頃までにはアッチカ地方のポリスとして成立し,貴族政治が行なわれた。前6世紀には僭主ペイシストラトスとその息子たちのもとに繁栄。同世紀末クレイステネスにより民主制が確立。前5世紀初めペルシア戦争に勝利してギリシアの指導的ポリスとなり,デロス同盟の盟主としてペリクレスのもとで古代民主制の最盛期を迎え,古典文化の中心地として数多くの哲学者,科学者,芸術家が輩出。ペロポネソス戦争でスパルタに敗れてからしだいに衰え,前 338年カイロネイアの戦いでフィリッポス2世に敗れマケドニアの支配下に入った。のちローマ領,ビザンチン領などを経て,1456年オスマン帝国に占領された。その後 400年近くにわたるオスマン帝国領時代には小都市にすぎなくなったが,1833年オスマン帝国支配から解放され,成立したばかりのギリシア王国の首都となってから,再び発展し始めた。第1次世界大戦後,商業,貿易の中心地となり,第2次世界大戦後は工業化も進められ,人口が急増,市域も周辺の平野部に広がっていった。繊維 (綿) ,酒類,陶器,製粉,石鹸,皮革,絨毯などの工場が立地するほか,化学,石油化学工業も行なわれる。主要輸出品はたばこ,ワイン,オリーブ油,干しぶどう,大理石,ボーキサイトなど。ギリシアの文化中心地として,国立アテネ大学 (1837) ,国立工科大学,国立図書館,国立考古学博物館など多数の教育・文化施設がある。市内には古典期に属するパルテノン神殿をはじめ,ローマ時代,ビザンチン時代の遺跡や建築物が数多く保存され,観光業が重要な産業となっている。鉄道,道路により国内のほかヨーロッパ各地と結ばれ,海路,空路により世界各地と直接連絡。ピレエフスおよび周辺地域を含めてアテネ大都市圏を形成している。人口65万5780︵2011︶,大都市圏 315万8400︵2011︶。
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アテネ
Athenai[ギリシア],Athens[英]
古代ギリシアの都市国家(ポリス)のうち,スパルタと並んで最も強大,文化史的にも比類を絶して多方面の天才を生んだ都市。その領域はアッティカと呼ばれ,一般のポリスのそれに比較して大変広く,多数の集落を含んでいた。中心市アテネの名は,女神アテナにちなんでおり,前2千年紀にミケーネ文明が支配した時代,そのアクロポリスには王城があった。前2千年紀末にドーリア人が北方から侵入したとき,アッティカのみは征服を免れた。それに続く暗黒時代にこの地方は多数の独立の集落に分かれていたが,前8世紀の半ば中心市アテネに集住した貴族たちが政権を握って,ポリスとしての統一が完成された。前6世紀初め借財による小農民の没落の危機がソロンの改革により回避され,また名門の支配に代わって財産に応じて参政権を認める制度となったが,政争が続き,前561年以来ペイシストラトス家の僭主(せんしゅ)政治をみた。これを倒したクレイステネスの改革により民主政治への基礎が置かれ,前5世紀初頭のペルシア戦争に際しては,アテネの重装歩兵軍と海軍とが外敵撃退に非常な手柄を立てた。その結果,アテネはデロス同盟の盟主として,ギリシア第1のポリスとなり,ペリクレスの指導のもとに民主政治を実現し,また文運の華を咲かせたが,スパルタとの間のペロポネソス戦争に敗れて以後は昔日の力を失った。前4世紀末マケドニアに屈してからは完全な独立を失い,学芸の都として知られた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
アテネ
Athenai(アテナイ)またはAchina(アティナ)と記される。英語ではAthens
中部ギリシアのアッティカ地方にあったイオニア人の代表的都市国家(ポリス)
民主政ポリスの典型で,ドーリア人のポリス,スパルタとよく対比される。前9世紀ごろ,王政から貴族政に移行してポリスを形成し,前6世紀前半,ソロンの改革からペイシストラトスの僭主政をへて,クレイステネスの改革で重装歩兵民主政治の基礎が確立した。前5世紀,ペルシア戦争に勝利を収めてデロス同盟の盟主となり,ギリシア第一の強国に発展,ペリクレスの下にその直接民主政が確立され,ギリシア文化の最盛期を迎えた。しかし前5世紀後半,ペロポネソス戦争でスパルタに敗れたのち衰え,前4世紀にマケドニアの支配下にはいったが,なお文化の中心で,ローマの属州(プロヴィンキア)となってもこの地位は変わらなかった。3世紀後半および4世紀末に一時ゲルマン人の占領を受けたが,その後はほぼビザンツ(東ローマ)帝国の支配下に組み込まれた。さらに1456年以来約4世紀にわたって,オスマン帝国に占領された。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報