改訂新版 世界大百科事典 「ミタンニ王国」の意味・わかりやすい解説
ミタンニ王国 (ミタンニおうこく)
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… インド語派の人々がその地に入る前の痕跡が,小アジアの前15~前14世紀ごろの文献に認められる。彼らはヒッタイト帝国に従属したミタンニ王国の上層部を占めていたらしい。その国の王の名や協約のときの誓いの神々の名,あるいは馬の調教の書に用いられている数詞などに,古いインド語で理解しうる形が指摘される。…
…ベーダ語の話し手の痕跡は,前14世紀ころの小アジアの文献にも認められる。ヒッタイト帝国に滅ぼされたミタンニ王国の王の名の多くは,Artatama(=サンスクリットṛtatama‐〈最も誠実な〉)をはじめサンスクリットで解釈される。またこの両国の王が交わした条約の文書の中にみられる誓いの神の名にも,ミトラ,バルナ,インドラ,ナーサティアのように,ベーダ神話で活躍する神の名が登場する。…
…
[新王国時代]
この時代の初期の歴史も,資料が乏しく明瞭とはいえないが,トゥドハリヤ2世/ニカルマティ,アルヌワンダ2世/アシュムニカルの2組の王,王妃による年代記,条約文などが比較的残っており,当時の情勢の一端を知ることができる。また,ヒッタイト王国の周辺部では,北シリアでミタンニ王国が隆盛となり,アレッポ,キズワトナに侵攻,またアナトリアの北部ではカシュカ族が優位を誇り,一時はハットゥサも陥落するなど苦境に立たされた。このような窮地の状態から脱し,新王国の基盤を築いたのは,スッピルリウマ1世(在位,前1380ころ‐前1340ころ)である。…
…前17世紀末から前16世紀初頭にかけて北シリアにおける旧勢力はヒッタイトに滅ぼされるが,まもなくヒッタイトが内紛のためシリアから身を引いている間に,フルリ人はシリアを中心にその地歩を固めた。この時期でとくに重要なのは前1500年ころまでに成立していたと思われるミタンニ王国である。ミタンニ王国【中田 一郎】。…
… イシン・ラルサ時代からバビロン第1王朝時代にかけては各種の粘土板文書が多く残っているから,統治体制,司法制度,商業,土地制度,尼僧制などに関して,みるべき多くの研究成果がある。バビロン第1王朝
[カッシート人,フルリ人,ミタンニ王国]
西イランにいたカッシート人はサムスイルナ時代に南メソポタミアに現れたが,その言語はまだわかっていない。バビロン第1王朝の崩壊後カッシート人は前12世紀中葉までバビロニアを支配した。…
※「ミタンニ王国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
タコノキ科の常緑高木。小笠原諸島に特産する。幹は直立して太い枝をまばらに斜上し,下部には多数の太い気根がある。葉は幹の頂上に密生し,長さ1〜2m,幅約7cmで,先は細くとがり,縁には鋭い鋸歯(きょし)...