日本大百科全書(ニッポニカ) 「ローマ史」の意味・わかりやすい解説
ローマ史
ろーまし
概観と時代区分
先史時代と王政期
共和政期
第一期(前509~前264)
第二期(前264~前133)
末期、内乱期(前133~前31)
帝政期
第一期(前27~後68)
第二期(69~192)
第三期(193~284)
第四期(284~395)
西ローマ帝国とその滅亡(395~476)
395年テオドシウス帝が死ぬと、帝国の東半分を長男アルカディウス(在位395~408)が、西半分を次男ホノリウス(在位393~423)が皇帝として分治した。ホノリウスの治政の前半はバンダル人スティリコが政治の実権を握り、ホノリウスの死(423)後まもなく即位したウァレンティニアヌス3世(在位425~455)は母ガラ・プラキディア(テオドシウスの娘、ホノリウスの異母妹)の影響下にあった。このテオドシウス朝期の西の帝国は、相次ぐゲルマン人の侵入と帝国領内での建国、帝国政府の直接統治領の縮小、税収の枯渇によって、没落の一途をたどる。
410年にはアラリック王の指揮下の西ゴート人がローマ市を占領し、3日間これを劫略(ごうりゃく)した。西ゴートはやがてガリアに移動し、その地でアタウルフ王は人質として連行していたガッラ・プラキディアと正式に結婚した。彼女は王が死去してから、ローマに送還され、将軍コンスタンティウス3世と結婚、後のウァレンティニアヌス3世を産んだ。406~407年の冬に、バンダル、スエビ、アラマンの諸民族はライン川を渡りガリアを席捲して、スペインに入った。バンダル人はさらに北アフリカに渡り、ほぼいまのチュニジアの地にバンダル王国を建設した。この間ガリアのアルモリカでは農民の反乱(バガウダエの乱)が続き、ブルグントもガリアに侵入した。そのブルグントはフン人によって殲滅(せんめつ)させられたが、アッティラ王率いるフン人も、ローマの将軍アエティウス指揮下の他のゲルマン諸集団(ローマの同盟集団)の混成部隊にカタラウヌムの戦い(451)で敗れ、アッティラの急死(453)後、フン部隊は急速に瓦解(がかい)した。
ウァレンティニアヌス3世の暗殺後、相次いでたった短命の数人の皇帝の時期、政治の実権はスエビ人リキメルが握り、465~467年にかけての18か月間は皇帝なしで統治し、やがて東から送り込まれてきた皇帝アンテミウスをも殺したが、彼もその6週間後に死んだ。次に実権を握った将軍オレステスは、ふたたび東から送り込まれた皇帝ネポスを追い出し、息子ロムルス・アウグストゥルス(在位475~476)を帝位につけた。ローマに雇われている同盟部族軍の長スキラエ人オドアケルは、給与の交渉でオレステスと決裂してこれを殺し、ロムルス・アウグストゥルスを帝位から追い(476)、帝冠を東に返し、東の皇帝の権威の下にたつことを選んだ。追われたネポスは、ダルマティアで480年に殺害されるまで、自らが皇帝であると主張していたが、476年の事件は一般に西のローマ帝国の滅亡の年とされる。この間にバンダル王ガイセリックはローマ市を占領、劫略し、サルデーニャ、コルシカも占領、北アフリカでも領土を拡大していた。476年のオドアケルの領域はイタリア、ラエティラ、ノリクムの一部、年金支払いと交換にガイセリックから譲られたシチリアに限られた。ラエティアの大部分は異民族の手にあり、ノリクムも488年には完全に放棄した。これ以外のかつての西のローマ領は、すべて異民族諸王国の領有するところとなっていた。これが西ローマ帝国の滅亡といわれたときの状態である。
[弓削 達]
ローマ史の研究史
ローマ史の批判的・科学的研究は19世紀初めに始まるが、それ以前においても、たとえばルナン・ドゥ・ティルモンらの史料収集、マキャベッリ、ダランベールらの通史的叙述を受けて、ペリゾニウスおよびド・ボーフォールによって文献史料の批判的研究が始められた。それらを土台として、ベルリン大学のニーブールの﹃ローマ史﹄︵1811、12︶の批判的通史が、農制、軍事、社会、政治制度、農民共同体を中心に展開され、科学的歴史学の出発点となる。続いてローマ法学者テオドール・モムゼンの法律・制度を中心にした巨大な研究が現れ、﹃ローマ法大全﹄の刊行をはじめ、今日に至るまで研究者の依拠するものを与えている。この巨峰を受けて、イタリアのパイス、デ・サンクティスの批判的通史が現れ、ドイツでは人口史を取り込んだベロッホの叙述がなされる。モムゼンの弟子のなかから、ヒルシュフェルト、デッサウは帝政期に、ゼークは古代末期に巨峰をつくる。 他方、個人史研究︵プロソポグラフィー︶の分野で、ミュンツァー、ゲルツァー、イギリスのサイムが巨大な業績をあげて社会史研究に道を開き、ローマ人の主要な概念の研究から価値意識を明らかにしたハインツェもこれに加わった。亡命ロシア人ロストフツェフの﹃ローマ帝国社会経済史﹄︵1926︶は、碑文、パピリ、貨幣ほかあらゆる考古学的史料をも総動員した通史として、前人未踏であると同時に、その後これに匹敵するものはない。アメリカ人フランクは、経済史史料の収集・翻訳︵全6巻︶によっていまなお研究を益している。 第二次世界大戦後の顕著な傾向としては古代末期の研究があり、シュタイン、A・H・M・ジョーンズ、フォークトの三大著はその推進役といえる。ローマ宗教史の研究には、戦前からのビッソア、戦後にかけてのラッテ、アルトハイム、テーガーがそれぞれ宗教と政治・社会の関係を明らかにしている。旧ソ連を中心としたマルクス主義史学の立場にたった研究も、いまや膨大な内容をもつに至っているが、とくにそれらに刺激された奴隷制の研究は、フォークトを中心にしたマインツ・アカデミーの奴隷制研究グループを生み出した。最近ではフランスのアナール学派のなかから、ポール・ビューヌの﹃パンとサーカス﹄のごとき社会史研究が生まれ、盛んになりつつある。 ﹇弓削 達﹈ ﹃E・マイヤー著、鈴木一州訳﹃ローマ人の国家と国家思想﹄︵1978・岩波書店︶﹄▽﹃ボールスドン編、長谷川博隆訳﹃ローマ人――歴史・文化・社会﹄︵1971・岩波書店︶﹄▽﹃ウォールバンク著、吉村忠典訳﹃ローマ帝国衰亡史﹄︵1963・岩波書店︶﹄▽﹃吉村忠典著﹃人間の世界歴史4 支配の天才ローマ人﹄︵1981・三省堂︶﹄▽﹃吉野悟著﹃ローマ法とその社会﹄︵1976・近藤出版社︶﹄▽﹃吉村忠典編﹃世界の戦争2 ローマ人の戦争﹄︵1985・講談社︶﹄▽﹃長谷川博隆著﹃ローマ人の世界﹄︵1985・筑摩書房︶﹄▽﹃弓削達著﹃ローマ帝国の国家と社会﹄︵1964・岩波書店︶﹄▽﹃弓削達著﹃地中海世界とローマ帝国﹄︵1977・岩波書店︶﹄▽﹃弓削達著﹃世界の歴史4 ローマ帝国とキリスト教﹄︵1968・河出書房新社︶﹄▽﹃弓削達著﹃生活の世界歴史4 素顔のローマ人﹄︵1975・河出書房新社︶﹄▽﹃弓削達著﹃世界の歴史3 永遠のローマ﹄︵1976・講談社︶﹄▽﹃弓削達著﹃ローマ皇帝礼拝とキリスト教徒迫害﹄︵1984・日本基督教団出版局︶﹄