ローマ史(読み)ろーまし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ローマ史」の意味・わかりやすい解説

ローマ史
ろーまし

概観と時代区分


 43西2121174西476西1453

 西

 6153便

 西

 

先史時代と王政期


 86575

 6

 ()()310

 

共和政期

第一期(前509~前264)

509122504945324135

 367調2874

 5396387338275273

 
第二期(前264~前133)

西26414632沿2西

 32168()1000153133129

 ()133125121

 
末期、内乱期(前133~前31)

105退

 ()130737149187

 663645850744

 ()73130100

 

帝政期

第一期(前27~後68)

272714()

 39

 14373741141545468西64()

 
第二期(69~192)

469792798181963

 9698981171171381381611611802()貿5180192

 69

 

 
第三期(193~284)

193211222235211198217212218222殿

 2845026()260253260退西25326827027527527630()

 
第四期(284~395)

28430522305退324306310310337330

 33303()調

 1161341

 3332364378西379395西退382

 4392

 
西ローマ帝国とその滅亡(395~476)

395年テオドシウス帝が死ぬと、帝国の東半分を長男アルカディウス(在位395~408)が、西半分を次男ホノリウス(在位393~423)が皇帝として分治した。ホノリウスの治政の前半はバンダル人スティリコが政治の実権を握り、ホノリウスの死(423)後まもなく即位したウァレンティニアヌス3世(在位425~455)は母ガラ・プラキディア(テオドシウスの娘、ホノリウスの異母妹)の影響下にあった。このテオドシウス朝期の西の帝国は、相次ぐゲルマン人の侵入と帝国領内での建国、帝国政府の直接統治領の縮小、税収の枯渇によって、没落の一途をたどる。

 410年にはアラリック王の指揮下の西ゴート人がローマ市を占領し、3日間これを劫略(ごうりゃく)した。西ゴートはやがてガリアに移動し、その地でアタウルフ王は人質として連行していたガッラ・プラキディアと正式に結婚した。彼女は王が死去してから、ローマに送還され、将軍コンスタンティウス3世と結婚、後のウァレンティニアヌス3世を産んだ。406~407年の冬に、バンダル、スエビ、アラマンの諸民族はライン川を渡りガリアを席捲して、スペインに入った。バンダル人はさらに北アフリカに渡り、ほぼいまのチュニジアの地にバンダル王国を建設した。この間ガリアのアルモリカでは農民の反乱(バガウダエの乱)が続き、ブルグントもガリアに侵入した。そのブルグントはフン人によって殲滅(せんめつ)させられたが、アッティラ王率いるフン人も、ローマの将軍アエティウス指揮下の他のゲルマン諸集団(ローマの同盟集団)の混成部隊にカタラウヌムの戦い(451)で敗れ、アッティラの急死(453)後、フン部隊は急速に瓦解(がかい)した。

 ウァレンティニアヌス3世の暗殺後、相次いでたった短命の数人の皇帝の時期、政治の実権はスエビ人リキメルが握り、465~467年にかけての18か月間は皇帝なしで統治し、やがて東から送り込まれてきた皇帝アンテミウスをも殺したが、彼もその6週間後に死んだ。次に実権を握った将軍オレステスは、ふたたび東から送り込まれた皇帝ネポスを追い出し、息子ロムルス・アウグストゥルス(在位475~476)を帝位につけた。ローマに雇われている同盟部族軍の長スキラエ人オドアケルは、給与の交渉でオレステスと決裂してこれを殺し、ロムルス・アウグストゥルスを帝位から追い(476)、帝冠を東に返し、東の皇帝の権威の下にたつことを選んだ。追われたネポスは、ダルマティアで480年に殺害されるまで、自らが皇帝であると主張していたが、476年の事件は一般に西のローマ帝国の滅亡の年とされる。この間にバンダル王ガイセリックはローマ市を占領、劫略し、サルデーニャ、コルシカも占領、北アフリカでも領土を拡大していた。476年のオドアケルの領域はイタリア、ラエティラ、ノリクムの一部、年金支払いと交換にガイセリックから譲られたシチリアに限られた。ラエティアの大部分は異民族の手にあり、ノリクムも488年には完全に放棄した。これ以外のかつての西のローマ領は、すべて異民族諸王国の領有するところとなっていた。これが西ローマ帝国の滅亡といわれたときの状態である。

[弓削 達]

ローマ史の研究史



 19181112

 19266

 AHM

 

E1978197119634 198119762 19851985196419774 19684 19753 19761984

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ローマ史」の意味・わかりやすい解説

ローマ史
ローマし
Roman history

 
7 509 ()  () 33 ( ) 1 ( )  ( )  (96180) 31 () ( ) 西 3951 ( ) 15西  

ローマ史
ローマし
Ab urbe condita libri

ローマの歴史家リウィウスの史書。 142巻。前 27年あるいは 25年から何回にも分けて出版された。伝説的ローマ建国時代から前9年のドルススの死とアウグスツスの統治までを扱う。序文によれば,執筆の目的は,世界を支配する民族の事績を記念し,ローマを偉大に導いた人々とその生き方,および前1世紀の動乱を招いた道徳的退廃を描写して,読者に適切な教訓を提供することにある。したがって必ずしも科学的批判的な史書ではない。現存するのは1~10,21~45の合計 35巻だけであるが,帝政時代に作られた『摘要書』 Periochaeによって,失われた巻の内容も知られている。

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