日本歴史地名大系 「上地村」の解説
上地村
うえじむら
- 愛知県:岡崎市
- 上地村
[現在地名]岡崎市上地町
村域西部を坂さか崎ざき村︵現額田郡幸田町︶より若わか松まつ村に南北に抜ける岡崎街道が通り、集落は街道と脇道沿いに立地。東は平ひら地ちほ本んし宗ゆう寺領・馬ばと頭う村、東南は坂崎村とそれぞれ山で接する。西は菱ひし池いけ沼開発地と高台の干地で土と呂ろ村・山やま畑ばた村と接し、北は大おお谷や村と交錯して接する。中世、深ふこ溝うず庄土呂郷に属すという。室町中期より土呂本宗寺領と考えられる。北西部に平安期末より大見氏が居住していたらしく、神社明細帳の上地八幡宮の項に、寿永三年︵一一八四︶当地の豪族大見藤六の館に源範頼が休息したと伝える。また﹁三河国二葉松﹂には、長享年間︵一四八七―八九︶以前に上地家俊の居住を伝える。
本宗寺の実証が天文五年︵一五三六︶に没した際に土呂御堂より上地野までの道筋に白布を敷き並べたという。
上地村
うえじむら
上地村
ういずむら
[現在地名]下地町上地
川かー満んつ村の南に位置し、北は与ゆ那な覇ぱ湾に面する。丘陵地が比較的多く、古くはこの一帯から東の洲すか鎌ま村にかけてタヌウイ︵田の上︶と称していたが、のち二村に分れたという。近代に至るまで集落を風刺してウイズンタガミ︵上地の土甕︶と称したが、田の上の頃から当地一帯の人々が田畑で泥まみれになって農耕に励む勤勉な姿をさすと伝える︵下地町誌︶。現存の家譜では白川氏九世恵是が天啓元年︵一六二一︶上地文子、同五年上地与人に叙任されたという記録が最も古い︵白川氏正統家譜︶。両島絵図帳に上地村とみえ、高四六八石余。宮古島の諸村位定では布上・石上︵里積記︶。
上地村
ういーちむら
上地村
わじむら
上地村
ういーちむら
[現在地名]読谷村上地
座ざ喜ち味み村の西、座ざ喜き味みグスクの南西側に広がる。ウィーチとよばれる。絵図郷村帳・琉球国高究帳に上地村とみえ、高究帳では高頭一三五石余、うち田一七石余・畠一一七石余。乾隆一二年︵一七四七︶当村は地理がよくないとして王府に集落移転を申請し、場所を北東の瀬し頼ら是し原に移した。だが人民が若死するなど災難が絶えず、咸豊八年︵一八五八︶集落を旧地に復することを王府に願出て許された︵﹁球陽﹂尚泰王一一年条︶。その旧集落跡の志しら良し志ば原るを上うい地ーち古ふる屋やし敷ちとよんでいる。拝所にタヱン川・上うい地ーち之殿があり、タヱン川では麦・稲四祭には花米・五水を、上地之殿では麦・稲四祭のとき五水・神酒、かつ穂祭のときには穂・五水をそれぞれ上地村百姓中が供えた。
上地村
うえじむら
- 三重県:伊勢市
- 上地村
[現在地名]伊勢市上地町
宮川下流左岸にある。初は瀬せ︵伊勢︶本街道と汁しる谷たに川とが交わる辺りにある。近世は和歌山藩田丸領。慶安郷帳︵明大刑博蔵︶によれば村高六〇一石余のうち畑方が三三三石余で、産物の煙草は上地煙草として知られた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報