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「上宮聖徳法王帝説」の意味・読み・例文・類語
じょうぐうしょうとくほうおうていせつ〔ジヤウグウシヤウトクホフワウテイセツ〕【上宮聖徳法王帝説】
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精選版 日本国語大辞典
「上宮聖徳法王帝説」の意味・読み・例文・類語
じょうぐうしょうとくほうおうていせつジャウグウシャウトクホフワウテイセツ【上宮聖徳法王帝説】
(一)( ﹁上宮聖徳法王﹂は聖徳太子の古い尊称。﹁帝説﹂は未詳。﹁たいせつ﹂とも ) 聖徳太子関係の伝記資料の集成。一巻。編者不明。奈良初期に成った部分もあるというが、現存本の形態は延喜一七~永承五年︵九一七‐一〇五〇︶頃の成立とされる。太子の系譜、事績その他の記録・文書を収め、記紀の所伝と異なるものが含まれるなど、古代史の史料として貴重。法隆寺の薬師仏および釈迦仏の銘文、天寿国繍帳の銘文なども引証される。法王帝説。
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上宮聖徳法王帝説 (じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)
聖徳太子の伝記。ただし首尾一貫した伝記というよりは,太子に関する種々の資料を集成した体裁をとる。系譜,行実,遺文など性質の異なる五つの部分から成り,その中には,内容やかなの用字からみて,記紀と別系統の,古い記録が含まれているといわれる。しかし,それらの各部分が結びつけられて,今の形の書物が成立したのは平安時代のことと思われる。内容や利用された遺文からみて,法隆寺系統の所伝が中心になっているらしい。仏教の伝来を欽明天皇の︿戊午年﹀︵538︶とし,太子の没時を︿壬午年︵622︶二月廿二日夜半﹀とすることなどは,︽日本書紀︾と異なる所伝として注目され,所収の太子一族の系譜,︽天寿国繡帳︾銘も貴重な史料である。知恩院所蔵の平安中期の唯一の写本によって現在に伝わった。︽古典保存会複製︾︽群書類従︾︽大日本仏教全書︾︽聖徳太子全集︾所収。
執筆者‥飯田 瑞穂
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上宮聖徳法王帝説
じょうぐうしょうとくほうおうていせつ
11世紀中ごろ以前に、法隆寺僧によって収集された、聖徳太子の伝記史料集。1巻。知恩院現蔵のものが唯一の古写本。聖徳太子関係の系譜、太子のおもな事業、法隆寺金堂の薬師(やくし)・釈迦(しゃか)像銘と天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)銘とその注釈、太子関係の史実、欽明(きんめい)以下5天皇の治世・崩年・陵、太子の生年・死去の年月日、を記す部分に分かれ、その裏書には、山田寺の創建に関する記事がみえる。これらの記事のなかには、﹃日本書紀﹄と異なる所伝︵仏教伝来538年、太子の逝去622年2月22日夜半など︶や天寿国繍帳銘など、本書によってのみ知られるものを含み史料的価値は高い。古典保存会の複製本、﹃群書類従﹄本、﹃大日本仏教全書﹄本、﹃聖徳太子全集﹄本がある。
﹇林 幹彌﹈
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上宮聖徳法王帝説
じょうぐうしょうとくほうおうていせつ
聖徳太子に関する伝記史料を集めた古記録。1巻。編者は法隆寺の僧であろう。主要部分は弘仁年間 (810~824) 以後から延喜 17 (917) 年以前に成立し,現在のような形になったのは,それ以後から永承5 (1050) 年までの間である。聖徳太子関係の皇室の系譜,太子のひととなりと事業,法隆寺関係の銘文と注釈,太子関係の歴史事実,欽明以下5天皇の治世と崩年などの記事から成る。なかには﹁記紀﹂その他の所伝と異なるものが多く含まれ,史料的価値の高いものといわれる。﹃群書類従﹄その他所収。
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上宮聖徳法王帝説
じょうぐうしょうとくほうおうていせつ
﹁法王帝説﹂とも。厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)の伝記。1巻。著者は不詳。成立は平安中期。内容は(1)聖徳太子を中心とする系譜,(2)太子の事績,(3)金石文,(4)太子の事績記事の追補,(5)欽明天皇から推古天皇に至る天皇の在位・崩年・陵墓から構成される。知恩院本には裏書きがある。各部分は成立時期を異にし,(3)が最後に成立したとされる。法隆寺系の太子伝で,﹁日本書紀﹂とは異なる所伝も多く,太子研究の基本史料。﹁続群書類従﹂﹁寧楽遺文﹂所収。
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「上宮聖徳法王帝説」の意味・わかりやすい解説
上宮聖徳法王帝説【じょうぐうしょうとくほうおうていせつ】
聖徳太子の伝記集。1巻。著者不詳。7世紀中ごろ以降の古い史料を編集し,平安中期に集大成したものと考えられる。聖徳太子の系譜・伝説・金石文集よりなる。古代史の貴重な史料。→上宮聖徳太子伝補闕記
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上宮聖徳法王帝説
じょうぐうしょうとくほうおうていせつ
7〜8世紀ころの史料を編集して成立。1巻。作者不詳。記紀にない異伝が多く,古代史研究の重要史料。仏教公伝の年も﹃日本書紀﹄の記載と違う。
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世界大百科事典(旧版)内の上宮聖徳法王帝説の言及
【聖徳太子】より
…用明天皇の皇子で母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后(欽明天皇皇女)。生年は《上宮聖徳法王帝説》に甲午年(574)とあるが確かでない。幼名を厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子といい,のちに上宮聖王,聖徳王,法大王(のりのおおきみ),法主王などとも呼ばれた。…
【知恩院】より
…1639,重要文化財),︿鶯張りの廊下﹀を経て後方には狩野一門の障壁画を配した江戸初期の大規模な書院造建築の大方丈・小方丈(ともに1641,重要文化財),また︽宋版一切経︾(5969帖,重要文化財)を納める経蔵(1619,重要文化財)などがあり,上の段には当院最古の建物で旧御影堂の勢至堂(1530,重要文化財)が建つ。寺宝は絵画,書跡,彫刻,工芸など数多いが,宗祖法然の生涯を48巻にまとめた︽法然上人絵伝︾(鎌倉時代),︿早来迎︵はやらいごう︶﹀として知られる︽阿弥陀二十五菩薩来迎図︾(鎌倉時代),聖徳太子伝の最古本で永く法隆寺勧学院に蔵せられていた︽上宮聖徳法王帝説︾(平安時代),渡来品では︽菩薩処胎経︵ぼさつしよたいきよう︶︾(西魏時代),︽大楼炭経︵だいろうだんきよう︶︾(唐時代)がともに国宝に指定されている。︻谷 直樹︼。…
【天寿国繡帳】より
…下絵を描いた東漢末賢︵やまとあやのまけ︶,高麗加西溢︵こまのかせい︶らは,いずれも渡来系工人で,現存する断片からは中国,朝鮮の色濃い飛鳥時代の風俗や,仏教以外の観念が同居する浄土像をうかがうことができる。また,この繡帳には,亀を形どった上に4文字ずつ刺繡された銘文があり,その全文は︽[上宮聖徳法王帝説]︾等に記載されているので,繡帳の成立事情などがわかる。また日本最古の浄土観念を示す︿天寿国﹀の名称や︿世間虚仮,唯仏是真﹀という聖徳太子の言葉は仏教史,思想史上からも注目されるものである。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」