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「下総国」の意味・読み・例文・類語
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下総国
しもうさのくに
下総台地には畑地が広がり、小河川の浸食した浅い谷には多くの谷田が形成され、北西部から東京湾に至る地域は低湿地帯となっている。こうした地勢に国造の領域が形成され、律令制下では一一郡が成立、古代末から中世においては大小の武士団が支配を展開し、三〇余の庄園や保・御厨が置かれた。東国の大寺社の一つ香取社と千葉氏を中心とする武士層との間の所領をめぐる激しい争いも続いた。古代から官牧が設けられ、馬の産地として知られていたが、中世にも牧が存在している。平将門の本拠地近辺で製鉄遺跡が存在していることも注目され、東国武士団の発生と鉄との関連をうかがうことができる。
〔国造の時代〕
大化前代には下海上国造・印波国造︵国造本紀︶、千葉国造︵﹁日本後紀﹂延暦二四年一〇月八日条︶の支配領域があったと考えられている。小(おみ)見(が)川(わ)町の三(さん)之(のわ)分(けめ)目(おお)大(つか)塚(や)山(ま)古墳・城(しろ)山(やま)古墳群などが下海上国造に関連するとされ、栄(さかえ)町龍(りゆ)角(うか)寺(くじ)古墳群・成田市公(こう)津(づは)原(ら)古墳群などが印波国造一族の墓と想定されている。のちの上総国域に六国造があったことからすれば下総国域の国造は少なく、諸国の例に近い。ただし国造名からのちの郡単位の広さが想定される点で、上総国の場合と類似する。下海上国造は上海上国造と密接な関連があり、海上首長連合、称して大海上国ともいうべき時代があったが、印波国造・武社国造などによって上海上・下海上に分断されたという説があり、海運を生かした勢力と想定されている。海(うな)上(かみ)郡には三(みや)宅(け)郷︵和名抄︶があり、現銚子市三宅が遺称地とされるが、おそらく海上潟に臨んで津が置かれていた︵﹁万葉集﹂巻九︶。同郡酢水浦は律令制下の郷名になく、この浦からは若海藻が貢納されているが︵平城宮跡出土木簡︶、下海上国造の貢進の伝統を引継ぐものといわれ、三宅の郷名からみても屯倉が設定されていたものであろう。また印(いん)旛(ば)︵印幡︶郡にも三宅郷がある。六世紀以降にはこうした国造以外の政治勢力がみられ、市川市の国(こう)府(のだ)台(い)古墳群はその首長層の墓域として注目されるが、千葉国造との関連は未詳である。
〔律令制下の下総〕
﹁和名抄﹂によれば葛(かつ)飾(しか)・千葉・印旛・匝(そう)瑳(さ)・海上・香取・埴(は)生(ぶ)︵はにゅう︶・相(そう)馬(ま)・島(さしま)︵猿島︶・結(ゆう)城(き)・豊(とよ)田(だ)︵岡田︶の一一郡が置かれ、田数二万六千四三二町余であった。うち島︵猿島︶・結城・豊田の三郡は現茨城県、葛飾郡の一部は埼玉県・東京都、相馬郡・香取郡の一部は茨城県に属する。国府は葛飾郡に置かれ、京までは上り三〇日・下り一五日の行程であった。
下総国
しもうさのくに
北は常陸・下野、西は武蔵、南は上総、東は海︵太平洋︶。武蔵国境と上総国境が常(じよ)総(うそう)台地を形成するが、ほかは関東平野の一部。常陸川︵現在の利根川下流部分︶・渡(わた)良(ら)瀬(せ)川・鬼(き)怒(ぬ)川などが流れ、飯(いい)沼・印(いん)旛(ば)沼・菅(すが)生(お)沼・鵠(くぐ)戸(いど)沼・釈(しや)迦(か)沼・山(やま)川(かわ)沼など大小の湖沼が分布し、洪積台地と沖積低地が複雑に入組んでいる。
おおむね西部・北部は現茨城県西南部、南部は現千葉県北部にあたる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
下総国 (しもうさのくに)
旧国名。総州。現在の千葉県北部と茨城県南西部および埼玉県東部。
古代
東海道に属する大国︵︽延喜式︾︶。古くは︿ふさ︵総︶﹀といい,7世紀後半の令制国の建置にともなって下総国と上総︵かずさ︶国が成立した。︿ふさ﹀の地域は︽国造本紀︾によれば,成務朝に須恵︵すえ︶,馬来田︵うまくた︶,上海上︵かみつうなかみ︶,伊甚︵いしみ︶,武社︵むさ︶,菊麻︵くくま︶,阿波︵あわ︶の国造が,応神朝に印波︵いんは︶,下海上︵しもつうなかみ︶の国造が定まったと伝える。これ以外に長狭︵ながさ︶,千葉国造の名がみえる。下総国は印波,下海上,千葉国造の地域にあたる。︽延喜式︾では葛飾︵かとしか︶,千葉,印播︵いんは︶,匝瑳︵そうさ︶,海上,香取︵かとり︶,埴生︵はにう︶,相馬︵そうま︶,猨島︵さしま︶,結城︵ゆうき︶,豊田︵とよた︶の11郡から構成されている。国府は葛飾郡にあり,現在の市川市国府台︵こうのだい︶付近に推定されている。国分僧寺・尼寺も葛飾郡にあり,現在の市川市国分町に遺構がある。︽和名類聚抄︾記載の田数は,2万6432町6段234歩である。︽延喜式︾の京との行程は上り30日,下り15日である。平安時代,平将門の乱,平忠常の乱の舞台となった。
執筆者‥吉村 武彦
中世
千葉氏とその所領
下総の国内主要荘園としては海上郡に九条家領三崎荘,二位大納言領橘荘,匝瑳郡に三井寺領玉造荘,熊野山領匝瑳南条荘,香取郡に円覚寺領大須賀保︵おおすがのほ︶,印旛郡に成就寺領印東荘,千葉郡に八条院領千葉荘,葛飾郡に伊勢二宮領葛西御厨︵かさいのみくりや︶,八条院・称名寺領下河辺︵しもこうべ︶荘,豊田郡に按察使︵あぜち︶家領豊田荘,相馬郡に伊勢内宮領相馬御厨などが分布する。下総屈指の豪族千葉氏は平忠常の曾孫常兼のころから千葉氏を称し,子常重の1126年︵大治1︶上総大椎︵おおじ︶城︵千葉市緑区大椎町︶から下総千葉城に居を移したといわれ,以後は千葉荘を本拠とした。1180年︵治承4︶石橋山の戦に敗れた源頼朝は,いったん安房に逃れて上総から下総へ入ったが,このとき常重の子常胤が下総国府で頼朝に参会した。当時下総は目代が平家方で,千田︵ちだ︶荘︵香取郡多古町︶には平清盛の婿領家判官代親政がいたが,千葉氏はこの目代を討ち,親政を捕らえて頼朝に味方した。以後千葉氏は鎌倉御家人として勢力を伸張し,歴代下総守護を務めた。
常胤の嫡男胤正は千葉介︵本宗︶をつぎ,次郎師常は相馬御厨を与えられて相馬氏の祖となり,子孫は鎌倉末期に主流が陸奥国行方︵なめかた︶郡に移った。下総での所領は現在の柏市,鎌ヶ谷市,東葛飾郡沼南町に分布する。三郎胤盛は千葉郡武石︵たけし︶郷︵千葉市花見川区幕張︵まくはり︶地区︶を伝領して子孫は武石氏という。四郎胤信は香取郡大須賀保︵成田市大栄︶を根拠とし大須賀氏の祖となった。五郎胤道︵通︶は始め葛飾郡国分︵市川市︶を譲与されたといわれ,のち香取郡本矢作︵もとやはぎ︶城を本拠とし子孫は国分氏を称した。六郎大夫胤頼は香取郡東荘︵とうのしよう︶︵東庄町︶を領して東︵とう︶氏を称しのち海上郡三崎荘︵銚子市,旭市︶をも父常胤より与えられたという。三崎荘は1185年︵文治1︶地頭の片岡常春が頼朝に所領を没収され常胤に与えられたものである。胤頼の子重胤は歌人として源実朝に愛され,重胤の子胤行︵素暹︵そせん︶︶も実朝・宗尊︵むねたか︶両将軍に仕え,︽新後撰和歌集︾等に作歌を載せた。1213年︵建保1︶の和田合戦には千葉成胤が幕府側で活動し,47年︵宝治1︶宝治合戦には千葉秀胤が三浦泰村の妹婿であったことから連座して,幕府軍で同じ千葉一族たる大須賀胤氏,東胤行に攻め入られ,上総国一宮の大柳︵おおやぎ︶館︵長生郡睦沢町大八木︶で弟,子息とともに自殺した。秀胤の弟時常の所領埴生︵はぶ︶荘︵成田市,印旛郡栄町︶は千葉氏から足利義氏,泰氏を経て北条実時に伝領された。このほか下河辺荘赤岩郷︵埼玉県北葛飾郡松伏町︶や同荘内前林・河妻など現在の利根川中流域の村々が実時の時代から伝領され,下方毛呂郷︵結城市︶,東荘上代郷︵香取郡東庄町︶が1321年︵元亨1︶北条金沢︵かねさわ︶氏より武蔵国六浦︵むつら︶荘金沢称名寺に寄進されており,北条氏領が千葉氏の勢力圏内に散在していたことがわかる。
関東の動乱
モンゴル襲来に備え千葉宗胤が肥前国小城︵おぎ︶郡に在留して以後,下総の千葉本宗は宗胤の甥貞胤に継承された。これより後宗胤の子と甥との間に対立が生じ,南北朝動乱の中で一族が南北に分かれて対立した。このため千葉本宗貞胤は一時勢力を衰退させた。しかし貞胤の孫満胤のころから大須賀,国分,東,木内ら千葉一族が合議して宗家を助けた。上総を地盤とする上杉禅秀の乱︵1416︶では,満胤の子兼胤が禅秀の女婿であったことから千葉氏は禅秀側に参加したが,幕府軍が来攻するに及び千葉氏は関東公方足利持氏に降り,所領は安堵された。永享の乱︵1438-39︶で足利持氏が没したのち,その遺子春王・安王は結城氏朝をはじめ里見,大須賀,宇都宮,小山︵おやま︶ら関東の諸将に助けられて結城城に拠るが,一方,千葉満胤の孫胤直は関東管領上杉憲実を支持して結城城を攻めた︵結城合戦︶。1441年︵嘉吉1︶結城は落城し,両遺子は殺される。関東公方なきあと上杉氏だけでは関東諸将を統轄することは困難となり,49年︵宝徳1︶持氏の末子成氏︵しげうじ︶が鎌倉に迎えられ憲実の末子憲忠が管領になった。しかし成氏は上杉一門に反感を抱き,これと対立して憲忠を討ったので以後関東は長く戦乱が続いた。千葉胤直は成氏を支持して転戦する。
古河公方
1455年︵康正1︶幕府軍に追われた成氏は下総古河城に移り,古河公方︵こがくぼう︶と称した。その後胤直は上杉支持にまわり,胤直の叔父で成氏方の馬加︵まくわり︶城主馬加康胤と対立,胤直・胤宣父子は敗れて千葉城より千田荘に逃れともに自殺する。上杉氏は胤直の弟胤賢の子実胤・自胤︵よりたね︶を助けて市川城に拠らせた。一方,千葉六党の一たる東氏は承久の乱後美濃国郡上︵ぐじよう︶郡山田荘を本拠としたが,京都在住の東常縁︵つねより︶が将軍足利義政より御教書を受けて下総に下向し,馬加城を攻め,康胤を上総八幡︵市原市︶に追い,翌年康胤は敗死した。一方,成氏の兵により市川城を追われた実胤は武蔵国石浜城︵東京都台東区︶,自胤は赤塚城︵東京都板橋区︶に拠り,実胤が出家したため,自胤が武蔵千葉介を継承,康胤の系統に継承された下総千葉介と対立した。57年︵長禄1︶将軍足利義政は成氏に対抗させるため弟政知を伊豆堀越に下向させ,堀越公方とした。
成氏はこれを滅ぼそうとして失敗し,長尾景信に古河城を落とされた。成氏は千葉孝胤を頼り下総に在留するが,房総の諸将は成氏のもとに結集して上杉氏に対したので,72年︵文明4︶成氏は再起して古河城に戻った。このころ下総千葉介は荒廃した千葉城を離れて居城を佐倉︵将門山︶に移していた。
国府台合戦
その後,上杉氏に代わって後北条氏の勢力が伊豆・相模から武蔵へと進出する。古河公方足利高基︵成氏の孫︶は豆相の北条氏や下総の千葉,原氏らを頼んだが,高基の弟義明は上総武田氏や安房里見氏に支持され,1517年︵永正14︶小弓︵おゆみ︶城︵千葉市中央区南生実︵おゆみ︶町︶の原氏を討ってこれに拠り,小弓公方︵小弓御所︶と称し,古河公方に代わり関東の統一を志した。高基の子晴氏は北条氏綱の娘婿となり,後北条氏と同盟して小弓公方と対抗し,38年︵天文7︶第1次国府台合戦が起こる。この合戦に義明は敗死して小弓公方は滅び,戦後は北条・千葉両氏の友好が深まり,一方里見氏は上総久留里城に義尭︵よしたか︶,佐貫城にその子義弘がいて越後の長尾景虎と連携した。64年︵永禄7︶北条氏康・氏政父子は,市川国府台に集結して武蔵岩付城主太田資正と連携しつつあった里見軍を急襲,第2次国府台合戦が起こる。里見氏は再び敗れ,北条氏は下総から上総北部まで進出し,以後里見氏は南房総に後退した。66年千葉胤富は原胤貞と協力し,臼井城を囲んだ上杉謙信の大軍を撃退しており,千葉氏は北条氏に対し常陸佐竹氏と南総里見氏との間に打ち込まれた楔の役目を果たした。85年︵天正13︶胤富の子邦胤が近臣に殺され,長子重胤は幼少で,下総は事実上北条氏の分国となった。90年豊臣秀吉の来攻により北条氏は滅亡し,千葉氏もまた運命を共にして滅び徳川家康の関東入国となる。
仏教活動
安房出身の日蓮と下総武士との関係は深く,鎌倉名越の松葉ヶ谷庵室にいた日蓮のもとに印東氏出身の日昭,平賀氏出身の日朗が入門している。1260年︵文応1︶念仏者により庵室を焼かれた日蓮は下総若宮︵市川市︶の富木︵とき︶胤継︵常忍︶の館に身を寄せ,大田乗明,曾谷教信ら近隣の武士がこの館で日蓮に謁し,法談を聴聞する機を得てその檀越になったが,この富木氏の館が中山門流発展の基となった。日蓮が1260年前執権北条時頼に呈した建白の書︽立正安国論︾の自筆本が法華経寺︵市川市中山︶にある。また武蔵金沢称名寺3世長老で華厳学者の湛睿︵たんえい︶は鎌倉末の動乱下,香取郡千田荘東禅寺︵多古町︶で談義研究の日を送っており,また称名寺と関係の深い埴生荘竜角寺,大須賀保慈恩寺なども学僧の活動が盛んであった。浄土宗では然阿良忠が建長年間︵1249-56︶両総を遍歴し,鏑木胤定,椎名胤光らの援助により研究活動を続けている。また,千葉氏胤の子聖聡︵しようそう︶は江戸増上寺開山となっている。千葉氏一族の東氏から出た臨済の禅僧竜山徳見は,渡元して修学に努めた偈頌︵げじゆ︶の大家で,門下に義堂周信︵ぎどうしゆうしん︶,絶海中津︵ぜつかいちゆうしん︶らの秀才を輩出している。1509年︵永正6︶連歌師宗長︵そうちよう︶は関東吟遊の途次下総に来り,小弓城主原胤隆の歓迎を受け,千葉妙見の祭礼や競馬,延年の猿楽︵さるがく︶などを見学しており,その紀行文︽東路の津登︵あずまじのつと︶︾からは戦国時代地方文化の一端をみることができる。
産業・商業
香取社領中,下総,常陸に点在する︿海夫︵かいふ︶﹀は,霞ヶ浦,北浦,現利根川下流域で漁業に従事し,津という集落をなし,香取社に人身的に隷属していた集団を支配・管轄したもので,15世紀の海夫注文に,下総国35浦,常陸国83浦とみえる。戦国時代の九十九里浜北部海岸では製塩が行われていた。また香取神宮を本所とする︿をの座﹀︿軽物座﹀や佐原宿二日市,五日市,八日市の存在などには中世的商業活動の一端をみることができる。水路関として神崎︵こうざき︶,戸崎︵とざき︶,大堺,行徳,下河辺,彦成が分布し,それぞれ商人の来往活動を反映している。国の西部を占める葛飾郡の郡域中央部から北部にかけて太日︵おおい︶河︵後の江戸川︶流域に下河辺荘,太日河下流西岸に葛西御厨があるが,この地域は戦国末期には武蔵国に編入され,現在は東京都,埼玉県,茨城県に属する。ただし水流の変転がはなはだしく,両荘の詳細については不明。寛永年間︵1624-44︶に江戸川が開かれ,江戸川を境に西は武蔵国葛飾郡となる。
近世
所領配置
徳川家康の関東入国直後に当国に配置された万石以上の諸将は,鳥居元忠︵矢作4万石︶,酒井家次︵臼井3万石︶,小笠原秀政︵古河3万石︶,松平康元︵関宿2万石︶,久野宗能︵下総の内1万3000石︶,保科正光︵多古1万石︶,土岐定政︵守谷1万石︶,三浦義次︵佐倉1万石︶,木曾義昌︵芦戸1万石︶,北条氏勝︵岩富1万石︶,結城秀康︵結城10万1000石︶である。万石以下では西郷家貞︵生実5000石︶,本多康俊︵佐倉領内小佐子5000石︶,久野民部少輔︵佐倉領内5000石︶,松平定勝︵小南3000石︶,松平伊昌︵佐倉領内飯沼2000石︶,山本頼重︵佐倉領内1000石︶の諸家であった。江戸に近接し,将軍のお膝元であったから,譜代大名,旗本知行所,天領が錯綜し,藩主の異動が頻繁に行われている。おもな藩の明治維新までの動きをみると,佐倉藩は三浦氏に始まり武田,越後松平,小笠原,土井,石川,形原松平,堀田,大給松平,大久保,戸田,稲葉,大給松平の諸氏があいついで入封し,1746年︵延享3︶堀田氏が再度入封した。関宿藩は久松松平氏︵2万石︶に始まり能見松平,小笠原,北条,牧野,板倉,久世,牧野,久世の諸氏が入封している。小見川藩は1594年︵文禄3︶松平家忠︵1万石︶の入封に始まり土井,安藤氏と続き,1619年︵元和5︶廃藩。1724年︵享保9︶以後内田氏︵1万石︶が入封した。生実︵おいみ︶藩は1627年︵寛永4︶からの森川氏︵1万石︶,高岡藩は1640年からの井上氏︵1万石︶,多古藩は1713年︵正徳3︶からの久松松平氏︵1万2000石︶が維新まで続いた。古河藩は小笠原秀政入封以後,戸田松平,小笠原,奥平,永井,土井,堀田,藤井松平,大河内松平,本多,松井松平,土井の諸氏が交替した。結城藩は中世以来の城主であった結城氏が1601年︵慶長6︶転封・廃城となり,1703年︵元禄16︶水野勝長︵1万8000石︶が結城築城以後水野領となった。
当国の家康の検地は1591年︵天正19︶から翌年にかけて行われている。1702年︵元禄15︶の総石高56万8331石1斗1升3合7勺4才,村数1486ヵ村︵︽下総国郷帳︾︶,1834年︵天保5︶総石高68万1062石6斗3升1合6勺6才,村数1623ヵ村︵︽下総国郷帳︾︶で,1804年︵文化1︶の総人口47万8721人,うち男25万2512人,女22万6209人︵︽吹塵録︾︶である。
経済・産業
幕府の殖産興業政策は,直ちに下総で実施に移される。香取郡新島︵しんしま︶の計画的な開発は早くも天正︵1573-92︶末年から開始されて寛永期︵1624-44︶まで続けられ,十六島の開墾を完成させた。1670年︵寛文10︶には椿海︵つばきうみ︶干拓に着工,干潟八万石といわれる新田が生まれ,95年︵元禄8︶はじめて検地が行われた。印旛沼の干拓も開墾・治水・水運の利を得るため,1724年︵享保9︶,83年︵天明3︶,1843年︵天保14︶と再三にわたり江戸︵東京︶湾への疏水工事が行われたが,いずれも失敗に終わった。手賀沼の干拓工事は1636年︵寛永13︶以後しばしば排水路の掘割工事が行われてきたが,ついに成功しなかった。徳川吉宗の享保改革の一環として青木昆陽が重んぜられ,幕張にカンショ︵甘藷︶を試作したことが知られ,また軍馬養成の牧場として,吉宗は小金五牧,佐倉七牧を直轄とし,積極的な経営を行った。幕末における野馬の数は小金牧が1300頭余,佐倉牧が約3800頭といわれる。
坂東太郎といわれる利根川は下総近世史の舞台装置として重要な役割を演じている。利根川が銚子口に注ぐようになったのは承応年間︵1652-55︶であり,また江戸湾に入る江戸川の開削に成功したのは寛永年間︵1624-44︶であった。利根川,江戸川の完成により,関東各地と結ぶ幹線水路が完成した。奥州諸藩米の江戸への輸送,九十九里・銚子沖の水産物,新島産の米穀,佐原・小見川の酒,銚子・野田の醬油,流山の味淋,木下︵きおろし︶の薪など諸物資輸送のルートとなっている。また家康の江戸入り直後,戦略物資たる塩の補給のために小名木川および中川と江戸川を結ぶ新川を掘り,行徳からの塩の道を設けており,行徳塩田が幕府の保護により発展した。江戸初期,紀州崎山の漁師次郎右衛門により開かれた銚子外川︵とがわ︶浦のごとく関西漁民の関東出漁が地元漁業の勃興を促す︵関東漁業開発︶。紀州出身者による組織︿木国会﹀が銚子に現存している。近世後期盛大であった九十九里地引網漁業で生産される干鰯︵ほしか︶・〆粕︵しめかす︶は,紀州のミカン,阿波の藍葉をはじめ諸国農作物の高級肥料となった。銚子ヒゲタ醬油の祖田中玄蕃は1616年︵元和2︶,ヤマサ醬油の祖浜口儀兵衛は45年︵正保2︶,野田醬油︵現,キッコーマン醬油︶の高梨兵左衛門は61年︵寛文1︶にそれぞれ開業したと伝え,1754年︵宝暦4︶銚子の総醸造高6733石,その前年に醬油仲間が結成されている。江戸に近接して地の利をえていた野田では1832年︵天保3︶の総醸造高2万3150石を数え,江戸荷受問屋と取引をしていた。
文化と社会
江戸川・利根川の茶船︵旅客船︶を利用して銚子磯回り,香取・鹿島・息栖︵いきす︶の三社詣でに江戸の文人墨客が下総に来往する機会が多く,これが地方の人々に刺激を与え,文化伝流の役割を果たしている。国学者平田篤胤の下総来遊を契機に東下総には多くの門人が生まれており,宮負︵みやおい︶定雄のごとき異色の人物も現れた。平田学以外にも,佐原の楫取魚彦︵かとりなひこ︶︵真淵門︶,滑川の椿仲輔︵与清門︶や草莽︵そうもう︶の国学者といわれる南羽鳥︵成田市︶の農家出身の鈴木雅之らが出ている。佐原の酒造家出身の地理学者伊能忠敬による測量活動も庶民文化勃興の著名な一例である。歌舞伎の初代市川団十郎が成田の近郷幡谷︵はたや︶村に住み,また歴代の団十郎が成田不動尊に篤信したことは,成田不動尊の利生・霊験を江戸に広め,世に喧伝させることになった。下総唯一の大藩である佐倉藩に招かれた蘭方医佐藤泰然は,佐倉に順天堂を開き,医学生を教えており,また藩主堀田正睦︵まさよし︶は洋学を奨励し,農民に種痘を実施した。
領主に対する農民の反抗事件としては,佐倉藩主堀田正信の時代に印旛郡公津村農惣五郎︵佐倉惣五郎︶が直訴をして1653年︵承応2︶処刑された事件が,︿佐倉義民伝﹀として世に喧伝されている。しかし,正確な史料は残存していない。
幕末には農村の荒廃がはなはだしく,ことに利根川筋などに多くの無宿遊民が発生し,この対策として,大原幽学のように農村指導に命をささげる人物も現れた。1868年︵明治1︶4月,江戸開城の直前には幕府軍の一部が脱走して撒兵隊と称し,下総に逃れ,市川・船橋で官軍と戦い,敗れて四散した。元新撰組隊長近藤勇が流山で捕らえられ,板橋に送られて処刑されている。
執筆者‥小笠原 長和
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
下総国
しもうさのくに
千葉県北部と茨城県南西部、埼玉県東端部にわたる旧国名。東海道の一国。大国。北は常陸(ひたち)国、南は上総(かずさ)国、西は武蔵(むさし)国に接する。﹃古語拾遺(こごしゅうい)﹄︵807︶によれば、初め﹁ふさ︵総︶の国﹂、大化改新により上総と下総の2国に分かれた。﹁ふさ﹂とは麻のことであり、ふさの国はよい麻を産する所の意味である。﹃和名抄(わみょうしょう)﹄︵931~938ころ︶では下総を﹁しもつふさ﹂とよんでいる。ところで、国造(くにのみやつこ)については﹃先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)﹄︵平安初期︶には、印波(いんば)国造、下海上(しもつうなかみ)国造、﹃日本後紀(にほんこうき)﹄︵840︶には千葉国造とある。﹃延喜式(えんぎしき)﹄︵927︶によれば、郡は千葉(ちば)、葛餝(かつしか)、印播(いんば)、埴生(はにゅう)、匝瑳(そうさ)、海上(うなかみ)、香取(かとり)、相馬(そうま)、結城(ゆうき)、豊田(とよだ)、猨島(さしま)の11郡から構成された。1985年現在千葉、市川、習志野(ならしの)、流山(ながれやま)、野田、柏(かしわ)、我孫子(あびこ)、鎌ヶ谷(かまがや)、船橋、八千代(やちよ)、松戸(まつど)、成田(なりた)、四街道(よつかいどう)、八日市場(ようかいちば)、旭(あさひ)、佐倉、佐原(さわら)、銚子(ちょうし)︵以上千葉県︶、結城、古河(こが)、取手(とりで)、水海道(みつかいどう)、岩井︵以上茨城県︶、三郷(みさと)︵埼玉県︶のあわせて24市と、東葛飾(ひがしかつしか)、印旛(いんば)、香取、海上(かいじょう)、匝瑳︵以上千葉県︶、北相馬、結城、猿島(さしま)︵以上茨城県︶、北葛飾︵埼玉県︶のあわせて9郡に分かれる。改新後に置かれた国府はいまの市川市国府台(こうのだい)、国分寺は市川市国分(こくぶ)に置かれた。﹃和名抄﹄には下総国内の郷数87、田2万6423町とある。
平安時代中期以降、桓武(かんむ)平氏は関東にその勢力を伸ばした。ことに平将門(まさかど)は当国猿島郡を、また平忠常(ただつね)は相馬郡を本拠として威を振るい、ついには反乱を起こすに至った。忠常の子孫は千葉氏として、当国を勢力地盤として大いに実力を発揮するに至った。1180年︵治承4︶石橋山の戦いに敗れた源頼朝(よりとも)は安房(あわ)に逃れたが、千葉常重(つねしげ)の子常胤(つねたね)は進んで頼朝のもとに参陣した。以後、千葉氏は鎌倉御家人(ごけにん)として着実に勢力を伸ばし、歴代は下総国の守護を勤めた。そのほか、結城氏、葛西(かさい)氏らの豪族の活躍も見逃せない。
下総国内のおもな荘園(しょうえん)をみると、匝瑳郡に三井寺(みいでら)領玉造(たまつくり)荘、熊野山領匝瑳南条(なんじょう)荘、香取郡に円覚寺領大須賀保(おおすがのほう)、千葉郡には八条院領千葉荘、葛飾郡に伊勢(いせ)二宮領葛西御厨(かさいのみくりや)、八条院・称名寺(しょうみょうじ)領下河辺(しもこうべ)荘、豊田郡に按察使(あぜち)家領豊田荘、相馬郡に伊勢内宮(ないくう)領相馬御厨、海上郡に九条家領三崎(みさき)荘、二位大納言(だいなごん)領橘(たちばな)荘、印旛郡に成就寺(じょうじゅじ)領印東(いんとう)荘が分布した。
13世紀の初めに安房国に生まれた僧日蓮(にちれん)は日蓮宗の開祖であるが、下総武士団との関係は深く、1260年︵文応1︶念仏者により庵室(あんしつ)を焼かれて下総若宮(わかみや)︵市川市︶の富木胤継(ときたねつぐ)︵常忍(じょうにん)︶の館(やかた)に身を寄せた。この富木氏の邸が中山門流発展の基となった。日蓮が執権(しっけん)北条時頼(ときより)に呈した﹃立正安国論﹄の自筆本が中山法華経寺(ほけきょうじ)にある。
戦国時代には足利成氏(しげうじ)が古河(こが)にあって、古河公方(くぼう)と称した。一方、房総南部を拠点とした里見氏や、後北条(ごほうじょう)氏らが当国にも逐次勢力を扶植するようになった。1590年︵天正18︶小田原合戦により千葉氏は後北条氏とともに滅亡し、徳川家康の勢力が急速に当国を席巻(せっけん)した。その結果、佐倉、関宿(せきやど)、古河の各藩のほか、結城、小見川(おみがわ)、多古(たこ)などの小藩が分立した。佐倉藩は、武田―松平―小笠原(おがさわら)―土井―石川―松平︵形原(かたはら)︶―堀田(ほった)―松平︵大給(おぎゅう)︶―大久保―戸田―稲葉―松平︵大給︶の諸氏が相次ぎ入封、1746年︵延享3︶以後は後期堀田氏が入封して定着した。関宿藩は松平︵久松︶―松平︵能見(のみ)︶―小笠原―北条―牧野―板倉―久世(くぜ)―牧野―久世の各氏が、古河藩は小笠原―松平︵戸田︶―小笠原―奥平―永井―土井―堀田―松平︵藤井︶―松平︵長沢・大河内(おおこうち)︶―本多―松平︵松井︶―土井の各氏が続いて明治に至った。
当国は江戸の御膝元(おひざもと)であったので、軍事上からも江戸の防衛線の重要な一環を形成し、譜代(ふだい)大名︵石高(こくだか)の規模は零細を特色︶、旗本知行(ちぎょう)、代官領が錯綜(さくそう)し、原則として佐倉藩領の城付(しろつき)領などを除くほかは、支配形態は一般的に相給(あいきゅう)の犬牙(けんが)錯綜の地であり、しかも個別領主の交替も頻繁であった。当国の検地︵太閤(たいこう)検地︶は1591年︵天正19︶から翌年に断行された。1702年︵元禄15︶における当国の総石高56万8331石1斗1升3合7勺4才、村数1486か村であった。これより先、佐倉藩に起こった佐倉惣五郎(そうごろう)事件は歴史上著名であり、人物としては、農民・商人から勉学を続け﹁大日本沿海輿地(よち)全図﹂を完成した伊能忠敬(いのうただたか)︵出身は上総国、18歳で下総国佐原村伊能家へ養子︶がよく知られる。産業は、近世以降、銚子(ちょうし)・野田の醤油(しょうゆ)醸造、行徳(ぎょうとく)の塩田が栄え、紀州漁民の進出で漁業も発展した。結城の紬(つむぎ)も古くから有名。1871年︵明治4︶7月廃藩置県により当国は印旛県、新治(にいはり)県の管轄、73年印旛・木更津(きさらづ)両県が合併して千葉県となり、75年新治県に属した地域を利根(とね)川を境界として千葉・茨城両県に分割、現在に至っている。なお、葛飾郡の一部は71年および75年に埼玉県に編入された。
﹇川村 優﹈
﹃﹃千葉県史 明治編﹄︵1962・千葉県︶﹄▽﹃川村優編﹃郷土史事典12 千葉県﹄︵1979・昌平社︶﹄▽﹃川村優他編﹃千葉県の歴史﹄︵1971・山川出版社︶﹄▽﹃川村優他編﹃千葉県地名大辞典﹄︵1984・角川書店︶﹄
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しもうさのくに【下総国】
現在の千葉県北部、茨城県南西部、埼玉県東部、東京都東部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。﹁延喜式﹂︵三代格式︶での格は大国(たいこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府は現在の市川(いちかわ)市国府台(こうのだい)、国分寺は同市国分(こくぶん)におかれていた。平安時代に桓武(かんむ)平氏がこの地を支配し、猿島(さしま)郡︵茨城県南西部︶を本拠とする平将門(たいらのまさかど)の乱、相馬(そうま)郡︵茨城県南部、千葉県北部︶を基盤とする平忠常(ただつね)の乱などが起きた。その後、忠常の子孫の千葉氏が勢力をもち、源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵を助け、守護となった。室町時代末期には里見氏、後北条(ごほうじょう)氏が進出。江戸時代には佐倉藩、古河(こが)藩、結城(ゆうき)藩など小藩が分立した。野田醤油(しょうゆ)、結城紬(つむぎ)などで知られ、苛政とたたかった義民佐倉惣五郎(そうごろう)も知られる。1871年︵明治4︶の廃藩置県により印旛(いんば)県、新治(にいばり)県がつくられた。1873年︵明治6︶に印旛県は木更津(きさらづ)県と合併して千葉県となり、1875年︵明治8︶に新治県は千葉と茨城の2県に分割編入された。◇北総(ほくそう)ともいう。また、上総(かずさ)国と合わせ総州(そうしゅう)ともいう。
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下総国
しもうさのくに
現在の千葉県北部と茨城県の一部。東海道の一国。大国。﹃古語拾遺﹄によれば,初め総国 (ふさのくに) と称したが,のち上総 (かずさ) と下総とに分れたという。﹃和名抄﹄では上総を﹁かみつふさ﹂,下総を﹁しもつふさ﹂と読んでいる。﹁ふさ﹂とは麻のことで,よい麻が生産されるところとして,四国の阿波国から忌部氏が海路ここに移ったものとみられる。﹃旧事本紀﹄には印波 (いんば) 国造,下海上 (しもつうなかみ) 国造,﹃日本後紀﹄には千葉国造とある。国府,国分寺は市川市におかれた。﹃延喜式﹄には,葛餝 (かとしか) ,印旛,匝瑳 (さふさ) ,海上,香取,埴生 (はにふ) ,相馬,猿嶋 (さしま) ,結城,豊田の郡があり,﹃和名抄﹄には87郷,田2万 6432町と載せている。平安時代中期以降,桓武平氏は関東にその勢力を伸ばしたが,ことに平将門は当国猿嶋郡を,また平忠常は相馬郡を本拠地として威をふるい,ついに反乱を起すにいたった。忠常の子孫は千葉氏として当国に重きをなし,鎌倉時代初期,千葉常胤が,石橋山の戦いに敗れて安房国に逃れた源頼朝を迎え,鎌倉幕府創立に協力した。その結果,鎌倉時代から室町時代にわたって千葉氏が守護として当国を支配したが,豊臣秀吉のときに徳川家康が江戸に入ると,千葉氏の支配は終った。江戸時代には佐倉,生実 (おいみ) ,関宿,結城,古河,高岡,小見川,多古,臼井などの小藩が分立した。明治4 (1871) 年廃藩置県で7月に藩は県となったが,11月に印旛県と新治県に合併され,のち 1873年印旛県は千葉県に,さらに75年新治県は茨城県に編入された。
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下総国
しもうさのくに
東海道の国。現在の千葉県北部,茨城県・東京都の一部。﹁延喜式﹂の等級は大国。﹁和名抄﹂では葛飾・印幡(いんば)・千葉・迊瑳(そうさ)(匝瑳)・相馬・猿島(さしま)・結城・豊田・海上(うなかみ)・香取・埴生(はにゅう)の11郡からなる。国府・国分寺は葛飾郡(現,市川市)におかれ,一宮は香取神宮(現,香取市)。﹁和名抄﹂所載田数は2万6432町余。﹁延喜式﹂では調庸は布で,中男作物として麻・紙・紅花など。古くは総国(ふさのくに)とよばれ,大化の改新ののち上総国・下総国に分割されたらしい。平安時代に桓武平氏が勃興し,平将門の乱,平忠常の乱により荒廃。相馬御厨(みくりや)は平良文の子孫に伝領され,千葉氏の所領となった。鎌倉時代には千葉氏が勢力をのばして守護となり,室町中期には鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)が古河に移って古河公方(こがくぼう)とよばれた。戦国期には後北条氏が里見氏を国府台(こうのだい)で破るなど,しだいに勢力をのばした。江戸時代には譜代小藩がおかれ,幕領・旗本領もあった。1871年(明治4)の廃藩置県の後,木更津県・新治(にいはり)県・印旛県が成立。73年木更津県と印旛県が合併して千葉県となり,75年新治県の一部が千葉県に合併。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報